子供の頃、あなたは何かに縛られてはいませんでしたか?
例えば親から押し付けられた価値観、例えば親戚や近所の人の心無い一言、
例えば級友の何気ない言葉。
主人公の白川理津子は、33歳のイラストレーター。テレビのトーク番組に出たり、CMに出演したこともある。雑誌の取材だって受ける、華やかだと思われがちな、彼女の私生活は、しかし本当は静かなもの。
子供のころのまま変化がない。十代のときも、二十代のときも、そして三十三歳の現在も、変化というものがない。
三十三歳の今、「ビジンはビジンを売り物にしていい」と言われても、高校生の時に後輩に「きれいな人」と言われても、多分それは彼女に何の感傷も呼び起こさない。
彼女にとって、繊細で小さな身体を持つ他の女性は、殆ど怖れを抱くような存在で、それに比して自分はあまりに頑丈な骨組みを持つ「鉄人28号」。料理が出来る事を男に話すことすら、はしたないと感じる彼女は、あまりに潔癖だ。
ブスという語は何語なのだろう。ともかくも、それは決して顔の造作によって決定されない。男にとって女としての価値のないこと、それがブスということである。
顔の造作に関わらず、彼女は自分にブスの烙印を押している。
資格がない、分不相応だと、全ての享楽から目を背けている。
彼女の自己を律するこの強さはどこから来ているのか?
些細なきっかけで知りあった、食べ物の好みと食べ方がぴたりと一致する、大西という男との毎夜の食事の中で、それが語られる。
近所の美少女に、「剥げキャロ」と呼ばれた五歳の頃の話、彼女が家の事情で預けられていた、イギリス人神父コートネイさんのもとでの暮らし、その後一緒に住むようになった両親のこと、高校生の頃の話、デザイン学校に通っていた頃の話、卒業後の話、ホストクラブでの雑誌取材の話・・・。
そこに浮かび上がるのは、あまりに淋しい一人の女性の姿。
「愛」を感じ取る事が出来ないまま、「愛」を受け容れる事が出来ないまま、言葉だけを受け取ってしまった者は、多分その言葉のみに縛られる。彼女を縛ったのは、キリスト教の言葉、周囲の言葉。彼女は過剰なほど自分を律する。それは彼女があまりにも周囲の目を恐れたから。
あいつ、繊細でもないくせに繊細な役をやりたがってるんだぜ。あいつ、鈍重なくせに鋭敏な役をやりたがってるんだぜ。ひそひそ声で世界が私をあざ笑うのではないかと恐れたのだ。
この本の中での大西との連続した食事は、外食ではなく彼女の部屋で作ったトマトソースのパスタと、茹でた茄子とキュウリにチーズを絡めた付けあわせで締め括られる。大西は、彼女が料理を作ることを見破った、初めての男。二人は互いに好ましく思い、相通じるものを感じるが、それは男女の愛ではない。大西もまた、何かが欠けた男であった。友愛と欲情が異なっている。
大西の言葉により、彼女は眠っていた、若しくは眠らせていた、女としての小さな願いに気づく。
「鉄人でも男でもなく女であることは神様だって変えられない、それを認めないから鉄人になって男になるんだよ」
願いに気づき、目を向けた彼女は、今度はその願いから逃げず、恐れず、幸せになれるのだろうか?
「ツ、イ、ラ、ク」 のような、恋愛小説の迫力はここにはない。
ただ、三十三歳処女の白川理津子のかなしみが胸に迫る。姫野さんはどうしてこういう感情をそっくりそのまま覚えていて、それを抉り出すことが出来るのだろうか。
少しでも身に覚えのある人間にとっては、とても痛い小説だと思う。ただし、肥大化した自意識に嫌悪感を催す人、またはこういった感情に縁の無かった人には、この小説は用が無いのかもしれない。
- 姫野 カオルコ
- 喪失記
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*臙脂色の文字の部分は本文中より引用を行っております。何か問題がございましたら、ご連絡ください。