気が滅入る様な文章のつづき…





少し前の私はもっと酷かった。
自分のこだわりを家族にまで
細かく要求して
通らないと不機嫌をぶちまけていた。
不思議と家族以外の他人とは
ちゃんと一線を引けるのだが、
家族に対してのこだわりを
制御できなかった。
ほんの一例で、
子どもが気に入って選んだ洋服や靴に
私が横からあれこれ口を出していた。
あっちの方が…こっちの方が…
人からヘンに思われないよ…という
今考えればどーでもいい基準。
それでも私と違って
身旺の命式の子どもは
自分のお気に入りを絶対に曲げなかった。
どんなにヘンテコなデザインでも
気に入ってしまったら
買ってもらうまで、泣いたり拗ねたり甘えたり
あの手この手で入手するように仕向ける。
結局、折れるのはこちら。強引に買わせる。


…けどやっぱり
気に入らない商品を買わされると
しばらくしてほとぼりが冷めたら
こっそり
中古屋で売っ払っていた。
子どもの尊厳などあったもんじゃない。
それがあやまちだとわかっていながらも
自分の嫌いなものが
家にあるということが
どうしても許せなかった。
こんなヘンなもの買わせやがって…と
着てる子どもを見るだけで
こちらが嫌な気持ちになっていた。

自分と子どもの間に
境界線を引けていなかったのだ。
こだわりを通り越し、あやまちを犯す母親。

そんなだったけど今では
子どもの選ぶ服に
とやかく言うようなことは
ほとんど無くなった。
あまりにヒドい時は指摘くらいはする。
けど、本人がこれでいいと言えば
あっそ、好きにしな、で済むようになった。

それは
子どものセンスと私のセンスは
別物であるとようやく理解したから。
別に何を着ようが私の『せい』ではない。
あと
子供服が消耗品だと理解したから。
永遠に私の視界にあるわけではない。
諸行無常。
前よりはほんのちょっと
妥協できるようになったと思う。

けど
わりと長く家に居座る
消耗品ではないものたちへのこだわりは
まだ根強い。
子どもが選んだキャンプの寝袋には
やっぱりまだ耐性がない。
2年前に買わされたヘンな色の寝袋。
今まで数回しか出番がないアイツ。
その人生の殆どを収納の片隅で活躍を待つ
アイツに未だに【嫌だ】という意識を
強烈に持ってかれることがある。









いずれにせよ
自分の好き嫌いが全くわからなかった私が
自分と対峙して、少しずつ
好き嫌いを自覚してしまった時から
【こだわり】や【あやまち】の道は
通らざるを得なかったと思う。
自分に対するこだわりは
ある程度持ってても問題ないけど、
他者に対するこだわりはできたら捨てたい。
最終希望地点は【手放す】ということ。
こだわり過ぎて悩むことからの解放。
でもその前の過程が私的にはまだある。
それは【あきらめ】というような感覚。
冷たいようだけど

仕方ない、仕様がない、関係ない…

そうやって
目の前の人間と無理矢理にでも境界線を引く。
私とは別の人間なのだから
私の目の前の人間が何を選ぼうが
私の知ったこっちゃあない。
その人が他人からどう思われようが
私には関係のないことだ。
私にとっては
手放す前にはあきらめることが必要。
それは相手との間に
境界線を引くことに近い。



これは仮定だけど
もしかしたら身弱の人間の多くは
自分と他者の境界線が曖昧なのではないか。
自分の輪郭がハッキリしていないせいで
他者の意見がそのまま
自分の意見になってしまったり、
自分の好みをそのまま
他者にも押し付けてみたり…

確たる自分がないからこそ
確たる相手を丸ごと受け入れてしまったり
反対に
確たる相手を丸ごと受け入れられずにいる。
パラドックスのような迷路。

私のこだわりの場合は
家族や近しい人物で踏みとどまってるけど、
それが他の人に及ぶ場合も
あるのかもしれない。
そのせいで日常生活に支障をきたすのなら
それを【障害】とラベリングすることで
安心したり、治療したりすることも
特段悪いことではない。






でも実はここ数日、
このあきらめを感じることが多くて
なんだか
やるせない気持ちでやり過ごしている。
こちらがいくらあきらめたところで、
実際は受け入れがたい現実が残っている。


頭ではわかっちゃいるけど
心の中で折り合いをつけるのは
なかなか難しい。
モヤモヤする思考と感情に
ゆらゆらと翻弄されている現在。


いずれ、時が解決するのかもしれない。
いずれ、手放す境地へと辿り着きたい。