クリスマスの意味

「恐れるな。わたしは民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。」ルカによる福音書2:10

 ベツレヘムの野原で野宿をしていた羊飼いたちに、天使が伝えた言葉です。喜びの知らせが伝えられました。「民全体に与えられる大きな喜び」。だれも除外されません。「民全体」の中には、昔の人も今の人も将来の人も、私たちすべてが含まれています。

「神は独(ひと)り子(ご)を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。」ヨハネの手紙Ⅰ 4:9

 イエスさまの弟子のひとりヨハネは、クリスマスの意味をこのように語りました。「わたしたちが生きるようになる」ことが、神が救い主をお遣わしになった目的です。神の愛が赤ちゃんという姿・形をとって地上にあらわれた。それがイエス・キリストの誕生です。この方を新しい気持で私たちの中に迎えたいと願っています。


クリスマス・ページェントの意味

 クリスマス・ページェント(聖劇)は、2000年前のユダヤのベツレヘムに起こった救い主イエス・キリストの誕生の出来事(神の私たちに対する愛の実現)を<いま、ここで>再現しようとするものです。語ること、演じること、歌うこと、祈ること、見ること、聞くことを通して、みんなでクリスマスの出来事に近づき、その場所に立ち会い、神の恵みを追体験したい――それが聖劇の願いです。

 子どもたちと先生、見に来てくださる方たちが時間と場所を共にして、2000年前の神の恵みの出来事を今の私たちのこととして共有したい。ハプニングや不十分なところがあってもいいのです。聖劇に失敗というものはありません。心をこめて一緒にその時を過ごしましょう。イエスさまは天使によって別名「インマヌエル」と呼ばれました。それは「神は私たちと共におられる」という意味です。私たちのクリスマス礼拝と聖劇の中に、神さまは、イエスさまは、一緒にいてくださいます。
フリー(Flea、本名 Michael Peter Balzary、1962年10月16日 - )は、オーストラリアのメルボルン郊外バーウッド出身のベーシスト、俳優。レッド・ホット・チリ・ペッパーズのオリジナル・メンバーの1人。
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身長168cm。左手の握力は120ポンド(一説では160ポンド以上)あると言われている。 ベースの技量は非常に高く、All Music Guideにおいて「史上最も才能豊かなロックベーシストの一人」と評されている。 速さと音圧を重視した独特のスラップ奏法や、デビュー当時は「狂気とも取れるエネルギーの爆発」と批評されたクレイジーで激しいステージングは、彼の代名詞となっている。またそのユーモア溢れるキャラクターも人気が高く、彼をリスペクトするベーシストは数え切れない。
フリー(Flea)とはノミの事であり、跳ねまくる彼のパフォーマンスに由来している。
2009年、全米最大の楽器ショウと呼ばれるNAMMに於いて、自身のプロデュースによるブランドである"Flea Bass"を発表した。「沢山のキッズに音楽に触れてほしい」との本人の意向を踏まえ、初心者にも求めやすい低価格と、音質の良さを求めたブランドとして注目されている。34インチ(ロングスケール)と30インチ(ショートスケール)が製品ラインナップに挙がっている。

学生時代は、いじめられっ子で暗い性格だったが、アンソニーなどのおかげで、今の明るい性格となった。ライブでの破天荒なパフォーマンスなどから無法者と誤解されがちだが、アルバムエディターレビューにもあるように、非常に紳士的な人物。そのため、フロントマンのアンソニー以上に、チリ・ペッパーズのスポークマン的役割としてよく取材を受けている。ライヴ中に機嫌を悪くし、途中で帰ろうとするアンソニーやジョンを説得するのも、フリーである(ウッドストック 1999など)。
元々、ジャズに関心があり、学生時代は吹奏楽部でトランペットを演奏していた。ジャズ・ファンク・ヒップホップ・ブルースなどの黒人音楽に造詣が深く、「音楽はソウルフルか、そうでないゴミかに分かれるんだ」(1990年クロスビート誌)と語る。2006年のRolling Stone誌では、ジョン・フルシアンテと共に、オールタイムベストミュージシャンを尋ねられた際、ボブ・マーリィとチャールズ・ミンガスを挙げている。これらのとアンソニーやヒレル・スロヴァクからの影響を受けて聴き始めたパンク・ロックとのマッチングで、自分のベーシストとしてのスタイルが築かれた、と語っている。ちなみにフリー自身が、ロックミュージックで史上最高のアルバムと言い張るのは、ザ・クラッシュの「サンディニスタ!」。近年、いつかは自分のすべてを出し切った、ジャズ・フュージョンアルバムを作ってみたいと発言している(Q誌他、日本ではベースマガジン他)。音楽の理解を深めるため、2008年に南カリフォルニア大学の音楽学部に入学し、音楽理論、作曲、そしてジャズ・トランペットを学ぶ。
リヴァー・フェニックスとは、親友の間柄であった。彼がドラッグ中毒で死亡した際に、救急車に同乗したのはフリーだった。また、カート・コバーンとは友人関係にあり、度々ニルヴァーナのライブに特別ゲストとして招待されていた。その場合フリーは、大抵カートのギターに合わせてトランペットを吹いた。
メタリカとも親交があり、彼らのロサンゼルス公演にゲスト出演し、「Fight with the Fire」をセッションした他、メタリカがロックの殿堂入りを果たした際にも、授賞式にプレゼンターとして出向いた。

スラップ、休符を多用するファンク的アプローチと、高速でベースを弾き激しいステージングを行うパンク的アプローチを混ぜた、いわゆるミクスチャーロックベーシストのパイオニア。スラップ奏法をロックに持ち込んだ人物の一人である。スラップのモーションは、ファンク、フュージョン系ベーシストに多いいわゆる親指上向きのものとは違い、五指を下向きにして横の回転運動で叩くように行う。プルは人差し指ではなく中指で行う。代名詞であるクレイジーなステージングは初期から変わっていない。また、トランペット奏者としても高い技術を持っており、レコーディングやライブなどでも披露している。
チリ・ペッパーズ初期
スラップ奏法を多用して、バンドをリードする役割を担う。基本的にほぼ指弾きである。若い頃は高度な技術を惜しげもなく披露している。4thアルバム母乳までのチリ・ペッパーズの楽曲はほとんどがベースラインを中心に構成されており、そもそもバンドの結成理由がアンソニーのラップとフリーのベースラインのマッチングが上手くいったことに起因することも含め、まさにバンドの核と言える存在だった。ブラッド・シュガー・セックス・マジックでは、手数の多いパンク・メタル要素を意図的に回避し、休符を生かすような重みがあってさらにファンキーなプレイを志向しているため、スラップを多くの曲で最小限に留め、それまでのスタイルとはまた違ったプレイを見せている(映像作品「Funky Monks」では、その心境の変化をフリー自身が語っている)。
チリ・ペッパーズ後期
ギタリストジョン・フルシアンテの活躍が目覚ましくなり、メロディー路線に徐々に移行していった後期以降は、これまでの高速スラッププレイというより、歌伴ベーシストのようなコードのツボを押さえてメロディーを生かすプレイが多くなっている。長尺ソロをとる楽曲が多い「ワン・ホット・ミニット」、集大成的作品である「ステイディアム・アーケイディアム」などでは、以前のようなスラッププレイを多用した楽曲もいくつか見られる。また、指弾きでなくピック弾きのニュアンスを生かした楽曲も増えてきている。
F チョッパー KOGA(えふちょっぱーこが、1986年12月22日 - )は、本名の古賀美智子(こがみちこ)で日本のタレント、グラビアアイドルとしてデビューした後、「Gacharic Spin」のメンバー(ベース担当/バンドリーダー)として活動している。

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略歴

2002年にグラビアアイドルとしてデビュー。プチエンジェル第2期(2002年度)メンバーに選ばれる。
同じ所属事務所のMAYUと共に、バンドTHE PINK☆PANDAを結成してミュージシャンとしての活動をスタート。多い時には年間100本にも及ぶツアーを精力的にこなす。
THE PINK☆PANDA在籍中にバンド「平安」を結成。メンバーはこがまろ(F チョッパー KOGA)、はなまる(はな/Gacharic Spin)、フローレンス朝倉(かおりん/CANDY TRIP)、シーサー(RINA/BLiSTAR)、SHOWNの5人。2005年には「平安女子」(SHOWNをのぞく4人で構成)のバンド名でTEENS' MUSIC FESTIVALにエントリーするが、関東甲信越大会セミファイナルで敗退。ラストライブを収録したDVD「平安時代終焉」を発売し、2006年1月25日に解散した。
2008年4月29日にはSHOW-YAが主催する女性ミュージシャンのイベントNAONのYAONにTHE PINK☆PANDAで出演。
メジャーデビューのために、2008年11月でインディーズにおけるTHE PINK☆PANDA名義の活動を終了。
2009年3月3日にTHE PINK☆PANDAを脱退した事を発表。
2009年6月にバンド「Gacharic Spin」を結成する。

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バンド

THE PINK☆PANDA(2002-2009)
平安(2004-2006)
Gacharic Spin(2009-)

作品

スラップ・ベース楽ちん☆フレーズ集(2011年、アトス・インターナショナル) ISBN 978-4-904741-62-7
ゼッタイ弾ける!スラップ・ベース超入門(2010年、アトス・インターナショナル) ISBN 978-4-904741-22-1

プロフィール

趣味:犬(スク)の散歩
特技:どこでも寝れる事
好きな食べ物:パン
嫌いな食べ物:貝
好きな色:黄色
口癖:「ねぇーねぇー」
子供の頃の夢:キャビンアテンダント
影響を受けたアーティスト:Primus

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作品(グラビアアイドル時代)

テレビドラマ [編集]
キッズ・ウォー3(2001年)
バラエティ・その他 [編集]
グラビアの美少女(MONDO21)
CSテレビ「フィギュアの王国」大人の趣味と生活向上◆アクトオンTV
イメージビデオ・DVD [編集]
プチエンジェル 古賀美智子(2002年、バップ)
不思議の国のプチみ(2002年、バップ)
ぷにゅぷに(2004年、オマタ)
QUTIE PISTOLS(2005年、ジーオーティー)
写真集 [編集]
あれ?(2002年、ぶんか社) ISBN 4821124114 撮影:SHOWN
ぷるんぷるん(2002年、ワニマガジン社) ISBN 4898298672 撮影:渡辺達生
不思議なピーチパイ(2004年、ぶんか社) ISBN 4821126028 撮影:SHOWN

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マーカス・ミラー(Marcus Miller,1959年6月14日 - )は、アメリカのベーシスト、音楽プロデューサー、作曲家・編曲家である。ジャズ・フュージョン界にて活躍している。
ウィントン・ケリーの甥。

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ベーシストとしてのマーカスは、'77年製フェンダー・ジャズベースをトレードマークとして、スラップ、タッピング、独特のネック寄りのフィンガー弾きなどの奏法を駆使して、表現力豊な深みのある音でそれを鳴らし、またジャズ、R&B、ファンクなどあらゆる音楽ジャンルの習得・理解をバックボーンとしたベースラインやグルーヴ感を伴った演奏が最大の魅力である。特にスラップ奏法の独特なサウンドは、他のベーシストに大きな影響を与えた。世界中にファンがいる20世紀末 - 21世紀を代表するベーシストの一人。
プロデューサー、作曲家・編曲家としても非凡な才能を見せ、デイヴィッド・サンボーン、ルーサー・ヴァンドロスらのアルバム制作に長年携わり、ヒット作を生み出している。映画音楽、CMなども多数手がける。近年の自身のアルバムには、様々なジャンルの楽曲をマーカス流のテイストを加えたアレンジで多数カバーしている。
また、周囲のミュージシャンから”jack of all trades”(なんでも屋)と呼ばれるように、ギター、鍵盤、ドラムなど他の楽器も相当な腕前で演奏することができ、特に高校時代から演奏しているクラリネットは得意な楽器であり、バスクラリネットによるリードとソロは一つのトレードマークになっている。また、ヴォーカリストとしても秀逸である。

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ベース
マーカスの愛機ともなっている'77年製のフェンダー・ジャズベースは、ロジャー・サドウスキーの手によってアクティブ回路搭載に改造されたものである。これはベース単体でトレブル・ベースのトーン調整により音作りができるようにしたものであり、マーカスのようなセッション現場を渡り歩くミュージシャン達に重宝された。マーカスのベースにはバルトリーニ製の旧型TCTが特殊結線で搭載されている。
もともとこの年代のフェンダー・ベースは、いわゆるヴィンテージものに比べて人気もそれほど無かったが、独自のサウンドを放つこのスタイルはマーカスサウンド、NYCサウンドと呼ばれ、他のベーシスト達に大きな影響を与えた。現在ではアッシュボディにメイプル指板ネック、アクティブ回路を搭載した'70年代フェンダージャズベーススタイルが一つのスタンダードとして確立しており、高い人気を誇っている。
このベースの他に、フェンダー、フォデラ・サドウスキー、ケンスミス、モデュラス等、多数のベースを所有しているが、最近のツアーに持参するのは、フェンダー'75 ジャズベース(サブ用)、フェンダー・ジャズベース改(フレットレス、CBS以降品、年代不明)、フェンダー・ジャズベースMM5(5弦)が多い。
なおあまり弾かないが、アコースティックベースも所有しプレイすることがある。
アンプ
1990年代前半はSWRのレッドヘッドやゴライアスがトレードマークであり、ベースアンプにツイータを搭載するスタイルを浸透させた。クリーンサウンドからファットサウンドへの指向の変遷からEBSを使用するようになり、現在の410スピーカキャビを使用するシステムに至っている。
エフェクター
各時期により変遷があるが、近年ではEBSのコンパクト(オーバードライブ、コンプレッサー、オクターバー、オートワウ、コーラス、リバーブ)を基本として、ファズ、ワウペダルなどを加えたフットペダル系で構成されている。

基本的にDR社製の“マーカス・ミラー・シグネチュア”モデルを使用。
DI
ディメター(Demeter)社製のVTDB-2B(チューブ・ダイレクト)を使用している。同機は真空管に「12AX7」を使用するダイレクトボックスで、レコーディングではベースアンプが使用されることは少なく、ベースからDIを通してミキシングコンソールにインプットすることが多いと言われている。

経歴
ニューヨーク生まれ。
クラリネット、サックス、エレクトリックベースを手にする。
音楽教育:ニューヨークの芸術学校とクイーンズ・カレッジ。
1979年 プロとして独立。GRP(デイヴ・グルーシンとラリー・ローゼンが設立したプロダクション、後にレーベルとして独立)のスタッフ・ミュージシャンとなる。
ブレッカー・ブラザーズ、渡辺香津美らとセッション。
1981年 マイルス・デイヴィスのThe Man with the Hornにベーシストとして抜擢される。
1983年 デビュー・アルバムSuddenly発表。自身がヴォーカリストとして参加。
1984年 アルバムMarcus Miller発表。日本盤は『パーフェクト・ガイ』名。
プロデュース、セッション・ミュージシャンとして、マイルス・デイヴィス、ジョージ・ベンソン、デイヴィッド・サンボーン、ロバータ・フラック、チャカ・カーン、ルーサー・ヴァンドロス、ドクター・ジョンやドナルド・フェイゲンらのレコーディングに参加。
1987年 生まれ育った街クイーンズの仲間、バーナード・ライトやレニー・ホワイトらとジャマイカ・ボーイズを結成。セルフ・タイトルでアルバムを発表。
1989年 ジャマイカ・ボーイズの第2作J. Boys発表。以後ジャマイカ・ボーイズ名義のアルバム発表はない。
1991年 ライブ・アンダー・ザ・スカイに出演。プージー・ベル、パッチェス・スチュワートらと組む“マーカス・バンド”はこのライブの為に初めて結成された。
1992年 この年最後の開催となったライブ・アンダー・ザ・スカイにデヴィッド・サンボーンを迎えて出演。
1993年 アルバムThe Sun Don't Lie発表。日本盤は『ザ・キング・イズ・ゴーン』名。生前のマイルス・デイヴィスの音源を収録していたり、デイヴィッド・サンボーン、ジョナサン・バトラー他多数の有名ミュージシャンが参加。
1995年 アルバムTales発表。
1996年 初のライブハウスツアー敢行、ブルーノート東京に出演。
2000年 ベスト・アルバムBest of '82-'96発表。
2001年 アルバムM2発表。日本盤は『M2~パワー・アンド・グレイス』名、ボーナス・トラックあり。
2001年 第44回グラミー賞「最優秀コンテンポラリー・ジャズ・アルバム賞」を獲得。
2002年 アルバムThe Ozell Tapes発表。
2003年 東京国際フォーラム7days Jazz、およびMt.Fuji Jazz Festeivalに出演。Take6と共演。
2005年 アルバムSilver Rain発表。同名タイトル曲にエリック・クラプトンがボーカル・ギター・作曲で参加。
2005年 ブルーノート春ツアー。東京・名古屋・大阪・福岡にて公演。
2005年 東京JAZZ2005に出演。
2005年 初のDVDMaster of All Trades発表。
2005年 ブルーノート冬ツアー。東京・名古屋・大阪にて公演。年間3度目の来日を果たす。
2006年 東京JAZZ2006に出演。フランク・マッコムと共演。
2007年 ブルーノートツアー。東京・名古屋・大阪にて公演。
2007年 アルバムFree発表。
2008年 アルバムMarcus発表。スタンリー・クラーク、ヴィクター・ウッテンと組み、3人のベーシストによるユニット"S.M.V."による企画アルバム、Thunderを発表。
2009年Tutu Revisited - The Music of Miles Davisツアー。仙台・札幌(Zepp)、東京・大阪(Billboard)にて公演。
2010年 東京JAZZ2010に出演。渡辺香津美 To Chi Ka 2010 - Kazumi Watanabe, Warren Bernhardt, Omar Hakim, Mike Manieri & Marcus Miller。
2010年Marcus Miller with special guest Larry Graham。東京(Billboard)のみ競演。大阪、名古屋(Bluenote)にて単独公演。
2011年DMS - George Duke*Marcus Miller*David Sanborn。東京JAZZ2011、東京、大阪(Billboard)、札幌(Zepp)公演。
ブーツィー・コリンズ(William "Bootsy" Collins、本名 ウィリアム コリンズ William Collins、1951年10月26日 - )は、アメリカ合衆国のミュージシャンでベーシスト、ボーカリスト。オハイオ州シンシナティー生まれ。ジェームス・ブラウンのバックバンドを経てPファンク主要メンバーの一人として活躍し、最も重要なファンクベーシストの一人である。スヌープ・ドッグのおじにあたる。

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ブーツィーという名は幼少時に母親がつけたあだ名である。
「ブーツィー」は1930年代半ばに黒人漫画家オリー・ハリントン (Ollie Harrington) がアムステルダム・ニュース紙上に書いたひとこま漫画の主人公[1]である。
ブーツィーはテレビと漫画が大好きな子供であった(このことは、後に彼が「キャスバー」や「ブーツィラ」など、様々なコミカルなキャラクターを好んで演じたことと関係があるかもしれない)。8歳の頃から、7歳上の兄フェルプス・"キャットフィッシュ"・コリンズを真似て、ギターを弾きはじめた。兄と同じように、ギターもベースも弾いていたが、地元のクラブで演奏するために兄のギターにあわせてベースを演奏するようになった。14歳(1966年)頃から地元シンシナティのスタジオミュージシャンとして音楽活動を開始した。1967年、ブーツィーは、フィリップ・ウィン(ボーカル)と出会い、フェルプス・"キャットフィッシュ"・コリンズ(ギター)、フランキー・キャッシュ・ワディ(ドラム)、ロバート・マッカラウ(テナーサックス)、クレイトン・"チキン"・ガネルズ(トランペット)とともにバンドを組んで演奏するようになった。このバンドは最初ペースセッターズ (Pacesetters) と名乗ったが、この名前のバンドがすでに存在したことから、ペースメイカーズ (Pacemakers) に名前を変更した。このバンドはジェームス・ブラウンの所属レーベル、キング・レコードの目にとまり、ここで多くの大物ミュージシャンのバックを務めることとなった。1968年にはジェームス・ブラウンとセッションをし、このときの録音は『リッキン・スティック Licking Stick - Licking Stick』としてシングル発表された。
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1970年、ジェームス・ブラウンのバックバンド、フェイマス・フレイムス (Famous Flames) が待遇改善を求めてストライキをおこした際、代役としてペースメイカーズが突如呼ばれ、リハーサルもなしにステージに立つこととなった。難なくこなしたブーツィーとフェルプスらは、1971年までの間、ジェームス・ブラウンのバックバンド、JBズとしてジェームス・ブラウンと活動をともにし、突如ファンク・ソウルミュージック界の中心に立つこととなった。
JBズオリジナルメンバーは、ブーツィー、フェルプス・"キャットフィッシュ"・コリンズ、ボビー・バード(オルガン)、ジョン・スタークス(ドラム)、ジョニー・グリッグス(パーカッション)、ロバート・マッカラウ(テナーサックス)、クレイトン・"チキン"・ガネルズ(トランペット)、ダリー・"ハッサン"・ジャミソン(トランペット)。
それまでリズム隊のメインはドラム、リズムギター、およびホーンで、ベースはハーモニーの低音部であったのに対して、ブーツィーの加入により、ベースが一躍リズム隊のメインに躍り出た。ジェームス・ブラウンはブーツィーのベースをことのほか気に入り、ブーツィーを常にそばにおき、移動の時も(バンドのツアーバスではなく)プライベートジェット機に一緒に乗せていくほどだったという。ブーツィーの在籍時代に、ジェームス・ブラウンは『セックス・マシーン (Get Up I Feel Like Being a) Sex Machine 』、『スーパーバッド Super Bad 』、『ソウル・パワー Soul Power 』などの大ヒット曲を多く生み出した。
しかし、LSD等の薬物使用のため、ブーツィーはステージ上にあってもたびたび幻覚をみるようになった。1971年のある日、自分のベースが蛇に見えたブーツィーは演奏を止めてステージから逃げ出してしまい、ジェームス・ブラウンに解雇された。ブーツィーも、音楽的にオールドスタイルで規律も厳しいジェームス・ブラウンのもとで仕事を続けていくのが嫌になっていたときであった。ブーツィーはタキシードを着てバックに徹しなければならないJBズではなく、サイケデリック・ロックやジミ・ヘンドリックスのような音楽、ビジュアル、ステージアクトがやりたかったのであった。1960年代後半、ジミ・ヘンドリックスが革新的なギタースタイルで黒人による新しいロック・ミュージックを作り出し、またサイケデリックムーヴメントがブラックミュージックにも押し寄せ、スライ&ザ・ファミリー・ストーンがロックやソウルの垣根を超えた新たな音楽を作り出していた時代であった。
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ブーツィーはデトロイトに移住し、キャットフィッシュ、キャッシュ・ワディとともに、自身のバンド、ハウスゲスツ (The House Guests) を結成した。ボーカルはペースメイカーズで一緒だったフィリップ・ウィンが担当し、またゲイリー・"マッドボーン"・クーパーも加わった。グラムロックのようなカラフルな出で立ちで激しいステージアクトを行うファンクバンドとして活動した。このバンドで活動中の1972年、スピナーズからバックバンドをしないかと誘いがあった。またファンカデリックを辞めたビリー・ネルソンの代わりのベーシストをさがしていたジョージ・クリントンも、後にパーレットのメンバーとなるマリア・フランクリンの紹介でブーツィーに声をかけた。結局ブーツィーはキャットフッシュとともにジョージ・クリントン率いるPファンクに参加することになり、フィリップ・ウィンはスピナーズに加わった。
Pファンクでは、ファンカデリック1972年発表のアルバム、アメリカ・イーツ・イッツ・ヤングで数曲ベースを弾いたが、Pファンクメンバーの薬物使用の激しさについていけず、また、ブーツィーにとってはファンカデリックの音楽はロックより過ぎたため、一時彼らと距離をおき、キャットフィッシュやキャッシュ・ワディらとともにコンプリート・ストレンジャーズ (Complete strangers) の名で地元でバンド活動をした。しかし、パーラメント1974年発表のアルバム、『アップ・フォー・ザ・ダウン・ストローク Up for the Down Stroke 』の録音には戻ってきて再びベースを弾いた。そして,親指と人差し指、および手のひら全体を使うスラップ奏法とオートワウ(エンヴェロープフィルター)を使い、その後の彼の代名詞ともなる新しいベースサウンドを生み出すことに成功した。パーラメント1975年発表のアルバム『チョコレート・シティ Chocorate City 』、および1976年発表のアルバム『マザーシップ・コネクション Mothership Connection 』ではこの彼の新しいベース音を聞くことができる。さらに1975年には、JBズつながりでメイシオ・パーカー(サックス)、フレッド・ウェズリー(トロンボーン)らをPファンクに引き連れてきた。彼らはその後Pファンクに欠かせないホーン陣となった。
また、ジミ・ヘンドリックスのまねをして歌う声が評判よく、その「ブーツィーボイス」をファンカデリック1975年発表のアルバム、レッツ・テイク・イット・トゥー・ザ・ステージ収録の 『ビー・マイ・ビーチ Be My Beach 』で初披露した。
このブーツィーボイスとブーツィーのキャラクターを生かすため、1976年キャットフィッシュ、フレッド、メイシオ、マッドボーン・クーパー(ボーカル)らとブーツィーズ・ラバー・バンドを結成した。ここでブーツィーは、星形のサングラスをかけ、星形の真っ白いベース(スペース・ベース)を弾き、また「キャスパー」、「ブーツィラ」、「スター・モン」、「ザ・カウント」などのキャラクターを演じる、ユーモアあふれるファンキーなステージアクトを繰り広げ、一躍スターダムにのし上がった。

1980年代に入ると、Pファンクの活動は急速に収束し、ブーツィーも活動のペースを落とした。スターが故のプレッシャーや、音楽以外のビジネス面での仕事が嫌で、故郷のシンシナティでゆっくりしていたという。しかしその後も精力的にソロアルバムを発表し続けた。1980年代後半から1990年代にはビル・ラズウェルのプロデュースのもと、ハードロックやハウス的な音楽をやるなど、活動の幅を広げた。セッション・ベーシストとしても活躍し、キース・リチャーズ『トーク・イズ・チープ』(1988年)、久保田利伸『BONGA WANGA』(1990年)等に参加。2002年、ナイキのテレビコマーシャルに出演したり、2005年モトローラの携帯電話のテレビコマーシャルに出演したりとメディアへの露出が絶えない。2006年に最新アルバムを発表、2008年現在も現役で活動中である。
ベースだけでなく、少し聞くだけで彼のものとわかる、甘くファンキーで目立つ「ブーツィーヴォイス」は、多くのミュージシャンから客演を求められている。ラスト・ポエッツ、スヌープ・ドッグ、ヴィクター・ウッテンなどのアルバムに参加し、彼独特のファンキーさを振りまいている。
またザップのファーストアルバム(1980年発表)ではプロデューサーとしても活躍した。2002年にも地元オハイオ州出身のファンクバンド、フリークベースのプロデュースを行っている。

1997年、パーラメント - ファンカデリックのメンバーとして、ロックの殿堂入りを果たした。
2010年7月よりベース奏者向けファンク大学(Funk University)を創立。オンライン上でベースの演奏指導を受けられる学校である。

星型のサングラス、シェイプが星、色は真っ白、きらきらひかる装飾がついたベース(スペース・ベース)がトレード・マーク。
JBズ時代にはフェンダー製ジャズベースを弾き、ハウスゲスツ時代およびPファンク参加初期には、フェンダー製プレシジョンベースおよびアレンビック社製プリアンプを使用していた[2]。1975年、ブーツィーは白い星形のベース(スペース・ベース)作成をラリー・プレスというクラフトマン[3]に依頼した[4]。このベースはブーツィーズ・ラバー・バンドのファーストアルバムのカバーフォトでみることができる。このベースは1977年に一度盗まれた(翌年シンシナティの質屋でみつかり戻ってきた)ため、同クラフトマンに2号機を作ってもらったが、その後20年以上もメインベースとして使用された。その後他のクラフトショップでスペース・ベースを作成し、2003年にはWashburn社よりブーツィーのシグネイチャーモデルのスペース・ベースが市販[5]され、ブーツィーもこのベースを使用している。
ブーツィーのベースサウンドは、ディストーションとオートワウ(エンヴェロープフィルター)を多用した、歯切れのよい、たたみかけるようなよくうねるベースである。「ビヨン」「ポヮ」と不思議な音のするオートワウベースは彼が先駆者であり、彼の代名詞である。オートワウは、Musitronics社製のミュートロンIII (Mu-Tron III) を愛用している。

グレッチ(Gretsch Company)は、アメリカ合衆国のフェンダー傘下の楽器メーカー。主にドラムとエレクトリックギターの製造で知られる。

1883年、ドイツからの移民であるフリードリヒ・グレッチュ(Friedrich Gretsch)ことフレデリック・グレッチ(Frederick Gretsch)によってブルックリンで創業され、当初はバンジョー、タンブリン、ドラムなどを扱っていた。1895年にフレデリックが39歳で死去し、子のフレッドが会社を継ぐ。フレッドは1916年にウィリアムスバーグのビルに会社を移し、これを機にグレッチはアメリカを代表する楽器メーカーへと成長することとなる。

1942年にはフレッドが引退。会社はフレッドの子、ウィリアムとフレッド・ジュニアに受け継がれる。この二人の経営者のもと、1950年代なかごろにグレッチはその全盛期を迎える。「6120」および「ホワイト・ファルコン」(シングルカッタウェイ、ダブルカッタウェイの2種類がある)に代表されるエレクトリックギターがヒット。さらにチェット・アトキンスが「カントリー・ジェントルマン」を使用したことによってその名声は不動のものとなった。アトキンスにならって多くのカントリーやロカビリーのギタリストがグレッチのギターを使用し、グレッチはギター業界においてギブソン、フェンダー、リッケンバッカー等と並ぶ地位を獲得した。
1960年代にはビートルズのジョージ・ハリスンもカントリー・ジェントルマンを携えて『エド・サリヴァン・ショー』のステージに立ち、またモンキーズにギターとドラムを提供したことから、グレッチの名はテレビを通じて全米に知られるようになった。

1960年代後半以降、ギブソンとフェンダーがエレクトリックギター市場で人気を二分するようになり、グレッチは次第に経営不振に陥っていく。1967年に会社はボールドウィン・ピアノに買収され、また1973年1月にはアーカンソーの工場が火災に遭う。さらに同年12月にも火災が発生。こうした不幸が続く中、1980年にボールドウィンはついにグレッチのギター製造を中止してしまう。
しかし1980年代に入り、ストレイ・キャッツのブライアン・セッツァーがグレッチのギターを使用して有名となったため、これをきっかけにグレッチへの再評価が高まった。1982年にはチャーリー・ロイがグレッチを買収するが、すぐにボールドウィンに買い戻される。1985年には会社は再びグレッチ一族の手に戻り、1989年からは新たにリイシュー・モデルを中心としたラインナップで製造を再開した。これ以降現在に至るまで、主にグレッチのギターは愛知県蟹江町にある寺田楽器で主に作られていることが知られていて品質への信頼を高めている

2003年にはギター部門がフェンダーの傘下に入り、高級モデルはミリ規格からインチ規格になり、長野県のフジゲンや、アメリカのフェンダー・カスタム・ショップでも作られるようになった

契約の問題でモデル名が変わっているモデルもある。仕様や型番も年代ごとに異なっている。同型でもカラーによってモデル名が異なるのも特徴である。ボールドウィンに移ると型番と仕様が一新された。
例えばテネシアンは当初、1ピックアップでシングルカッタウェイというカントリー・ジェントルマンの完全な下位機種であった。62年になるとカントリー・ジェントルマンはダブルカッタウェイとなり、ミュート機構が装着された。それまでのカントリー・ジェントルマンの仕様をほぼ継承、さらに変化させたのが2ピックアップのテネシアンである。同時期に6120もダブル・カッタウェイとなり、ミュートは1つ装着されたが、ミディアム・スケールとなっている(CGはロング・スケール)。
チェット・アトキンスのアーティスト・モデル「チェット・アトキンス・モデル」「カントリー・ジェントルマン」「テネシアン」「スーパー・チェット」などについては、1979年にアトキンスがグレッチとのエンドース契約を打ち切り、ギブソンと契約したため、名称を変更せざるを得なかったが、グレッチは2007年にアトキンスの遺族と再契約し、「テネシアン」「スーパーチェット」などを除いて再びオリジナルの名称を使用できるようになった。
チェット・アトキンス・モデル Chet Atkins Model (一時期:ナッシュヴィル Nashville)
カントリー・ジェントルマン Country Gentleman(一時期:カントリー・クラシック Country Classic)…時期によりモデルが変わっている
スーパー・チェット Super Chet
スーパー・アトキンス・アックス Super Atkins Axe
デュオ・ジェット Duo Jet
テネシー・ローズ Tennessee Rose(テネシアン Tennessean)
ホワイト・ペンギン White Penguin
ホワイト・ファルコン White Falcon
ニコニコ生放送(-なまほうそう)とは、ニコニコ動画が提供する生中継動画配信サービスのことである。「ニコ生(にこなま)」と呼ばれることもある。

ニコニコ生放送は、リアルタイムで配信する動画に、通常のニコニコ動画と同様にコメントをつけて楽しむことができるサービスである。

ひろゆきこと西村博之氏とニコニコ動画開発者の戀塚昭彦氏のクリスマス対談会に端を発し、現在までにユーザーとのゲーム対決、人気アーティストの出演、映画の試写会等が配信されており、そのコンテンツは多様である。

出演者とのコメントのやり取りが基本的な楽しみ方ではあるが、配信者も同時に何十列ものコメント群に絡むことなど到底できないため、時には関係ないコメントでコメント欄が埋まったり、ただのチャットと化す場合もある。

最近、運営が最も力を注いでいるサービスの一つである。
それにより、かなり盛り上がるようになってきた。

ペタしてね



この項でのベース(英語: bass、ドイツ語: Bass バスとも)は、低音パートを演奏する弦楽器の総称である。
楽器そのものを指す場合とパートを指す場合があるので、使用には注意を要する。


通常は楽器としてのベースを指すが、声部として一番下の旋律を演奏している楽器群を指すこともある。極端な例では弦楽合奏においてチェロが高音域で主旋律を担当しヴィオラやヴァイオリンがその下で支え、かつコントラバスが演奏していないような場合、ヴィオラやヴァイオリンのことを指すこともある。

一般的に、ベースはチェロやギターの1オクターヴから2オクターヴほど音域の低い楽器とされている(構造や演奏法は各項目を参照)。
弦の数は4 - 5本が主流であるがもっと少ないものも多いものもあり、ギターやマンドリンのように副弦を持つベースもある。チューニングもさまざまである(下の関連項目を参照)。
概して、ネックはチェロやギターよりも長く弦はそれらよりも太い。ただし弦楽器の音域を決定する要因は弦の長さや太さだけではないため、必ずしもチェロやギターの低音弦より長く太い弦が張られている必要はなく演奏や運搬などの都合を考えて楽器全体を小さく設計してあるものも存在する。
単にベースと呼んだ場合はコントラバスかエレクトリックベースのどちらかを指すことが多いが、構造は「電気的に増幅することを前提として設計されているか否か(エレクトリックかアコースティックか)」「ネックを垂直に近く構えることを前提として設計されているか否か(アップライトかヴァーティカルか)」の組み合わせで大まかに4つに分けられる。
なお、この項では実在する弦楽器をコントローラーとして使ったシンセベースなどは取り上げない。
フェンダー(Fender Musical Instruments Corporation)は、レオ・フェンダー(Leo Fender)が1940年代に創業した楽器メーカーである。主にエレクトリックギター、アンプの製造を行っている。

本社はアメリカ合衆国アリゾナ州スコッツデールにあり製造拠点をカリフォルニア州コロナ、メキシコ、日本などに持つ。旧社名はFender Electric Instrument Manufacturing Company。エレクトリックギター、エレクトリックベース、ギターアンプの製造販売を行う会社としては同じくアメリカ合衆国のギブソン社などと並んで世界でも屈指の企業として認識されている。また、ソリッドボディのエレクトリックギターを世界で初めて量産したことでも知られる

前身は1938年にレオ・フェンダーがカリフォルニア州フラートンで創業した「フェンダー・ラジオ・サービス(Fender's Radio Service)」で、ラジオ受信機や音響機器の修理を行っていた。1945年にフェンダーはドク・コフマンと共に「K&Fマニュファクチュアリング」を設立。スティール・ギターとアンプの製造を開始する。しかし1946年、コフマンとの共同経営は解消、1947年社名をフェンダー・エレクトリック・インストゥルメント・カンパニーに改名する。
エレクトリックギターは1920年代後半から数多くの製造業者によって作られていたが、それらの多くは胴体の部分が中空のホロー・ボディと呼ばれる構造であった。また、ソリッド・ボディ(胴体部が中空でない構造)であってもリッケンバッカー社のハワイアン・ギターのように特殊な奏法向けであったり、ポール・ビグスビー製作の通称「ビグスビーギター」のようにオーダーメイドであったりしたため量産型のソリッドボディのエレクトリックギターは存在しなかった。レス・ポールもソリッドボディのギターの開発を進めていたがギブソン社からレスポールモデルが発売されたのは1952年である。
フェンダーは1948年頃にソリッド・ボディのエレクトリックギターの試作品を完成させ、1949年にエスクワイヤーとして発表。1950年にはブロードキャスターを発表、1951年にテレキャスターに改称、その理由はグレッチ社のドラムに同音の商標(綴りは「Broadkaster」)のモデルが存在したからである。対応を迫られたフェンダー社は極短期間だがヘッドのデカールのモデル名を切り取って販売を続けた。これは通称「ノーキャスター」と呼ばれる。実質的にはテレキャスターが世界初の量産型のソリッドボディ型のエレクトリックギターと言える。同年世界初のエレクトリックベースであるプレシジョンベースを発表。フレットを採用し正確な音程を得ることができるプレシジョンベースは当時革命的であった。1954年にはストラトキャスターを発表。その後も1958年にジャズマスター 、1960年にはジャズベース、1962年に当時の最高級機種であるジャガーを発表するなど、現在も多くのミュージシャンに愛用されている名器を生み出した。
フェンダーのギターやベースの特徴としてソリッドボディの量産以外にボルトオンによるデタッチャブル・ネック方式が挙げられる。従来のセットネック方式(膠での接着)に比べ格段に修理などが容易になり、この方式は現在多くのギターメーカーで採用されている。
エレクトリックギター産業の先駆者として多くの楽器を発表したフェンダーだが、1965年にCBS社に売却され法人としての「フェンダー社」は無くなる。また、同年V.C Squier社を買収する。同時にフェンダーは経営者から技術顧問として同社に残るも僅か数年で退社している。健康上の理由と新たに開発した技術を新体制のフェンダー社が積極的に採用しなかったためとも言われている。その後は楽器業界の低迷による売り上げの低下による業績不振、さらにフェンダー社製品の品質低下に加え、廉価なコピーモデルの横溢によって自社の市場が脅かされるなど企業として弱体化が進む事態を迎え、1980年代初め頃にはストラトキャスターなど看板商品が一時生産を終了するにまで至った。
1985年、CBS社の楽器部門の撤退により、ヤマハなどに在籍していたビル・シュルツを最高経営責任者に迎えてフェンダー社が再興される。 2012年に、新規株式公開(IPO)を申請。同社は2.4億ドルの長期負債を抱えており、IPOで調達した資金は負債の返済に充てると見られている。IPO申請時の株式保有率は、米ウエストン・プレシディオが42.92%、山野楽器が14.28%、神田商会が12.85%となっている。
モズライト


モズライト(Mosrite)はかつてカリフォルニア州ベーカーズフィールドに本拠を置いていたアメリカ合衆国の楽器メーカー。


1950年代前半に元リッケンバッカーの社員であったセミー・モズレーによって創設され、幾度の倒産を経ながらも1990年代まで活動。


モズライト系デザイン
UNIVOX Hi-Flier phase3
同社製のギター(モズライト・ギター)は特有のデザイン、音質から多くのアーティストに愛用され、ベンチャーズや加山雄三の影響で特に日本で人気を博しグループ・サウンズ期にも活躍した。1970年代の後半から、パンクバンド、ラモーンズのギタリスト、ジョニー・ラモーンが愛用していた事もあり、今も多くの若者に支持されている。後に1980年代末にノースキャロライナ州ジョナスリッジに(この工場は火災による被害を受けている)、そして晩年はアラバマ州ブーンヴィルに移転し、モズレーが設立したユニファイド社が生産を行っていたが、1992年にモズレーが死去すると妻のロレッタ・モズレーが経営を引き継いだものの、1994年に倒産した。ちなみに、元ユニファイド社のスタッフやフィルモア側の証言によると、ロレッタ夫人は倒産後の債務処理等の一切合財を放棄して、ブーンヴィルの工場を勝手に引き払ってネバダ州に転居してしまったという。
1960年代からモズライト代理店として営業して来た日本のフィルモア楽器がモズレーの死後、浮いた商標を再取得し、東海楽器製造及びアメリカ国内のギターメーカーに製造を委託してモズライトとして販売している。現在はセミー・モズレーから直接ギター製作の手ほどきを受けた愛娘のディナ・モズレー(セミーの二人目の妻との間の子供)をアドバイザーに迎えている。
ベンチャーズ全盛期にはセミー・モズレーとも親交のあった日本のファーストマン社が、モズライトの許可を得て、日本製モズライトギターを生産していたが、1969年に米モズライト社の倒産の煽りを受けて倒産。その際、ファーストマン社の下請け会社であった黒雲製作所がモズライトの商標を所持していた事から、商標使用の権利を巡ってフィルモア楽器が訴訟を起こしたが、東京地方裁判所(平成19(ワ)5022)において双方共に正式な商標権を持たないことが確認された。
その後もロレッタ未亡人がモズライトの主権を主張し、突然京都府に工房を設け、かつてモズライトの工場に勤務しているクラフツマンを迎えてモズライトギターの受注生産を開始した。これにより現状ではフィルモア製モズライトと黒雲製作所製、そしてロレッタが設けた工房製の三種類があることになり、さらに2009年6月15日、ロレッタ・モズレー側が(株)フィルモア及びアメリカでのモズライトのディストリビューターである"Ed Roman Guitars"社を相手取り、「モズライト」の所有権を改めて明確にする事を求め、アメリカ合衆国連邦裁判所に対し提訴、受理されている。未亡人であるロレッタと対立しているフィルモア側にセミー・モズレーの娘であるディナ・モズレーが参加している。
TSUMAのブログ
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