おはようございます、由希子です。

 

母との共依存問題②です。

 

みりわんさん主催「家族の心理学講座」親子編を受講し、再び「親子関係」を考えてみました。

 

講座では知識だけでなく、

参加者の皆さんの自己紹介とお話を聞く機会があります。

その中で静かに聞いてもらえる安心感と、一体感。

 

皆からもらった安心感が、

私の弱さも未熟さも愚かさも・・・

何もかもを

丸ごと認めてくれました。

それは誰かに認められたい!とゾンビのように周りに求めてきた私が

ようやくその思いをコップ一杯にできた時だったのかもしれません。

だから、私自身がようやく自分自身を受け入れられたのです。

 

 

私が安定すると感じていた「上下関係」、その発端は母子関係そのもの。

支配を嫌悪しながらも、私はその状況に安心感を持っていたのでした。

それは「支配」が「庇護」の延長にあると考えいる甘さであり、他人軸で生きる無責任さと楽さに慣れてしまっていました。

あきらめてしまった自分。

自分の考えていることの、どれが本当の自分なのか、わからなくなっていました。

 

幼い頃は仕方がない。

両親に従うことは生きることだから。

でも自分にも翼があることを知っているのに、

飛べないフリをして、無力なふりをして。

いつしか本当に飛べないんじゃないか?と自分ですら思い込んでいました。

 

 

行き過ぎた庇護が支配と化す恐ろしさ。

それは子どもを、飛べない鳥にしてしまう。飛ぶのを恐れる鳥にしてしまう。

知らず知らずのうちに母と同じように息子に接していた自分。

もとは愛なんだから、という大義名分を振りかざし、息子の羽を使い物にならないしてしまうところでした。

 

それは夫に対しても、でした。

 

少し前に自分が理想としていた、母像はポニョの母。

包み込むような、フジモト(夫)を飲み込んで腰砕けにしてしまうような圧倒的な母。

そんな深い愛への憧れと同時に

恐怖も感じていました。

好きすぎて大事過ぎて飲み込んでしまいそう・・・。

まるでエイリアンみたいに。

 

自分を生きていない存在感の薄さを、

他人の存在感で埋めようとする恐ろしさ。

 

私はこのような未熟な自分を認め、(諦め)

仕方のない奴だと、育てなおしながら今ここにいる。

今は、育てなおし真っ最中の自分なのだ。

だから未完成だし、

完全ではない、

それでいい、と。

 

この作業が、メンドクサイのではなく、

そうやって自分で、納得のいく「自分」を積み上げていく喜びを

ようやく感じながら。

 

だから誰かに必要とされなくては、

存在できないほど

無力でも、情けなくもないのだ、

と思うと

自分の輪郭も少しずつ濃くなっていく。

 

このどうしようもない「もたれあい」「つぶしあい」は私で終わりにする。

 

 

その上、頼まれてもいないのに、

自分が我慢することで、

「愛してね」という見返りを望む。

これもしっかり引き継いだ。

その母の気持ちが分かるから

否定しきれなかった自分。

母もきっともらってきてしまったのだ。

でも、それを引き継ぎたくない。

 

我慢しなくったって、

子どもたちはもう

自分を愛してくれていると知っているから。

自分がかつて、無条件に母を求めたように。

 

母を恨んで

そしてそんな自分を許せず、せめて

その繰り返しから脱出できなかった

 

でも誰も悪くない

誰も悪くない

 

誰も責めない

自分はしない、と決めるだけだった。

そのために一つ一つ無意識を意識にのぼらせる、そしてやめると決める。

 

”無意識に引き継いだ「家族としてのコミュニケーションの仕方」は「私が切る」と決めた人が出た時点できれます。”

というみりわんさんの言葉を胸に、

私は終わりにすると誓いを立てた日でした。

6月の花、紫陽花