★愚痴る息子にイライラした理由は、それを赦してはならない、と思う自分
先日友人が来て、
久々にお喋りを楽しんでいた時、
横でゲームをしていた息子が急に話に入ってきた。
「クラスの奴がさあ・・・
アクティブラーニングをうたっている学校なのに、同じグループの人たちは消極的で動いてくれず、
結局自分が一人で持ち帰ってやった。
先生に自分一人でやったことを見抜かれ、
グループワークの意味を再度説かれて
「俺は悪くないのに」と理不尽な思いをした、
って内容だった。
一人全く参加しない人がいて、
息子の怒りはそこにむく
勿論これは息子の見た世界であって、
事実はどうかわからない。
でもいつもなら、もうちょっと
「うんうん、そうなんだ」って聞いてあげられる。
だのに、なぜ・・・?
まずは、
「ぐちる」ことは、悪い、醜いことである、
という前提が私の中にある。
そう教えられてきたのだが、それが抜けない。
愚痴に罪悪感があるため、自分の中にため込んで、結局もっとひどいことになったわけで
だから、悪い感情も吐き出せ、と自分にも言っているのに、時々舞い戻ってくる罪悪感。
それが、息子の愚痴を拒絶する。
更に
息子に見えている世界を、
息子の味方になって聞けない、という
ジャッジマンな私が出てくる。
正しいことを言わねば、
この子の言っていることが正しいか否か、
判断せねば
という気持ちで、全面的に味方になれない。
これは自分に対してそうなので、
近しい家族にはモロ向かう。
また更に
私の友人の前であったことも、理由としてあった。
息子の全面的味方になる親ってはずかしくない?
親ばかじゃね?
という気持ちが働いたのだ。
子どもの時、そんな母親を熱望したのに
まだまだ、自分にも子どもにも味方になりきれてないね・・・。
そして、「正しくあれ」という自分が腕ぐみして私をまだ見張っている・・・。
正しいって立場によって違うのに。
そんなことに気が付いたひとこまでした。