「夜の梅」

 

 

いつもの散歩コースに、

トレイルランの人々が走るようになってきた。

 

コロナあたりから増え始めた。

土日は大勢走ってくる。

すぐ川の向こうに車道があるのにそっちは走らない。

 

それまでは山登りの人々や四季折々の山野草を楽しむ人々が歩く、

ゆったりと落ち着いた場所だった。

 

一人ぐらいしか歩けない細い遊歩道を後ろから走ってくる。

私は脇の斜面に身を避ける。

あるいは崖すれすれに立って通り過ぎるのを待つ。

 

お礼を言う人もいれば言わないで走り去っていく人もいる。

団体だったり二人で走ってくるときは、皆大声で話しながら走ってくる。

 

 

日々変わっていく足元の小さな風景や木々の変化を

味わいながらのんびり歩いているのに、

それを蹴散らされているような気分になる。

 

なんかいやだ。

 

赦そうと努力する。

でもどうしても赦せない私がいる。

 

それは私が走れない罪悪感から来ているのか。

ジムで練習して走れるようになったら、彼らを赦すことができるのだろうか。

でもそれも違う気がする。

 

奇跡のコースは私が走れようが走れまいが、

彼らを赦すことを促している。

 

 

最近、遊歩道の入口にトレイルランをできるだけ控えてくれるよう看板が出た。

このエリアの自然を守っている団体だ。

しかしいつの間にかその看板も雨にさらされて

何を書いているのかわからない状態になっている。

 

昨日、あまりの多さに声をかけた。

「すいません、ここ、トレイルラン禁止の場所なんです」

最初に声をかけた男の人は、

「あらっ、そうなの?知らなかったわ。ごめんなさい」

と、ほおに両手を当てた仕草が可愛かった。

 

それから次から次に声をかけた。

 

だがだんだんいやになってきた。

これいつまで言い続けるんだろう。

 

走っている人は悪者で、歩いている人は善人。。

 

私はトレイルランをしている人を敵にしている。

自分と他人を完全に分離させている。

 

こうやって書くことで、トレイルランをしている人が浮き上がってくる。

人は何かにフォーカスすると、

それを肥大化させて、さらに実在させる。

 

人が敵を外に見るのは、

自分に罪があると信じているから悪い人を外に置くのだ。

 

そしてその人に

「お前が悪い!お前には罪がある!」

と宣言することによって、

その時だけ自分は無罪になると信じている。

 

だから私はトレイルランする人に罪をなすりつけている。

 

だが罪があると言った瞬間、自分に罪があると宣言している。

 

罪は罪を作る。

 

どっちかが有罪でどっちかが無罪。。。

なーんてことはドラマの中の設定でしかない。

 

事実は、誰かに罪を見た時、同時に自分に罪を与えている。

 

これは本当にきつい。

最初そのことを知識で知った時、まさかと思った。

しかし今はそれが事実だとわかる。

私は罪に魅了されているのだ。

 

罪があると信じている以上、その罪を手放すことはできない。

 

罪を握った手を緩めることはできない。

 

だから私はじっと見る。

罪を手放そう手放そうとあがいている私を見る。

 

じっと黙って静かにそこにいる。

 

じっと黙って何もしない。

 

 

 

 

 

 

 

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「ケサランパサラン」和紙、水彩


 資金も底をついてきた。

 

この世は幻だ。ここに価値はない。

起きてくることに身を任せ、

お金もなくなりホームレスになるのが運命ならそれでいいではないか。

どのみちこれは幻想だ。

と、言い聞かす。

 

でも心がいう。

このまま死んでもいいんだろうか。

いや。このままじゃ死ねない。

やれるとこまでやってみる。

 

 

 

久しぶりに営業に動く。

今まで出版社やデザイン事務所、

ニューヨークではそれプラスイラストレーターエージェントに営業をしてきたが、今回は画廊。

 

自慢じゃないが数々の門前払い、無視、お断りの経験を積んできたから、

営業といえば辛かった思い出ばかりがよみがえる。

 

今は昔と違ってメールでやりとりができる。

作品を持って行ったり、作品ファイルを送ったりという手間は省けるが、

相手の反応がちっともわからない。

それでもお断りの返事をくれるだけの丁寧さがあるところはありがたい。

 

営業が好きな人っているんだろうか。

作品に自信を持って送っても、

まったく場違いだったり、

「あんたどこに絵を見せてんの?」みたいな反応があると、

私バカなんちゃうか?と落ち込む。

 

 

どんどん落ち込んでかなり辛くなってきた。

いったい何十年同じことを繰り返してきたんだ。。。40年?

そしていつも同じ反応だ。

自分の無能さがほとほとイヤになる。

惨めだ、ひとりぼっちだ、もうイヤだ!

 

これは私に何を教えてくれようとしているのだろうか。。。

 

私の中に

営業の失敗=私が間違っている/無能

お金がない=私のやり方が間違っている/無能

という法則があった。

 

有名な人は正しい営業をして、

お金持ちは正しいやり方をした。

という法則。

 

つまり私はひたすら間違った無能な人生を送っていることになる。

確かにそう思っている。

 

この信念は正しいんだろうか。

 

それは自分の価値を人に渡していることになる。

仕事が決まれば自分の作品もしくは自分という存在に価値があるとされたことになり、

仕事にならなければ自分には価値がないということになる。

 

 

自分の存在価値を外に渡している。

 

たとえ仕事が決まったところでそれはひとときのものだ。

決して長続きはしない。

そしてまた自分の価値を求めて外をさまようことになる。

 

自分の幸せは他人次第。

そんなことをやっている自分がいた。

 

この世は幻想どころか、あきらかにこの世を実在させていた。

知覚に完全に振り回されている。。。

 

 

 

営業に失敗しようが成功しようが、私は幸せ。

お金があろうがなかろうが、私は幸せ。

 

知覚ではなく、知識を思い出す。

私という存在が、

ただそこにあるだけで価値がある。

 

正真正銘そこに行くために、

私はこの出来事をひき起こしたのだ。

 

 

夜3時に目が覚める。

窓を開けると目の前に、

満開の夜桜が満月を浴びて輝いていた。

 

心の中に緑あふれた草原が広がっている。
私はそれを自分の中に
どんどんどんどん取り込んでいく。

 

私という存在が、

内側から大きく膨らんでいくのを感じていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

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「おにぎり皿」


 

 

奇跡パパさんの投稿に、

「指図されたくない」と書いてあった。

わかる~!

 

指図とはちょっと違うかもしれんけど、

思い出した。

 

「ひとは指示、指摘では動かない。
その正論が人を黙らせる」

という動画をこのあいだ見つけて、

はっきり実感した。

そだ!人は正論じゃ動かない。

 

 

 

どんな正論ぶちかまされても

なんか息苦しい。

はいはい。あんたの言ってることは正しいよ。そりゃそーでしょうよ。

でもなんかモヤモヤする。。(笑)

 

それは愛じゃないからだ。

愛からではなく、脅し。

 

常識はこうだから、

人としてこうあるべきだから、

あなたのためだから。。。

 

たとえコースの正しい言葉を言われても

なんかムカつく。

そこに愛がなければ。

 

人は無意識に反応するんだ。

君は間違っているというジャッジを正論で包み込んでも

人はその非難に敏感に反応する。

 

無理やりねじ曲げられるような思いがするんだ。

 

でもその動画の中にある、

暴れている人を動かした言葉(1分30秒あたりから)。

 

奥さんが倒れて動揺して、

病院の指示もまともに聞かないでわめき散らしていた人は、

奥さんの妹さんのたった一言で心がほどけた。

 

「姉をほんとうに愛してくれているんですね。ありがとうございます」

 

おれは怖いんだ!うろたえているんだ!

うちのカミさんが死んだらどうしていいかわからない!

と言う思いを妹さんは受け取っていた。

 

そこには何のジャッジもない。

ただ義理のお兄さんの姉への思いをありがたく受け取っていた。

 

人は愛で溶ける。

理解されると溶ける。

 

私も省みると人に散々正論言ってたよなあ。

相手は憮然としてたよなあ。

 

正しさってなかなかな曲者だ。

人によって正反対の正しさがある。

その曖昧な正しさを振りかざしても人は動かない。

無理やり人を動かしたって、お互いに何かが残る。

 

犠牲という一見美談に聞こえるものも、

隠された苦しさを生み続ける。

 

指示、指摘、正論、

みんなこの世界の横軸の流れ。

行動を起こさせる。

 

行動さえすれば、心が伴ってなくてもいい。

親からの指示、先生からの指示、上司からの指示、医者からの指示、、、。

でもそれは恐れによる行動。

 

行動の動機は二つある。

恐れによる行動。

そして喜びによる行動。

 

やらなきゃ!という恐れを伴う行動はどのみち長続きしない。

 

でもやりたい!というよろこびを伴う行動は、

行動しているという意識さえなくやる。

 

川がさらさらと流れるような

自然な生き方したいなあ。

 

 

 

 

 

 

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鉄分の多い土に絵付け「葡萄小鉢」


 

 

闇が襲ってくるとき、どう対処すればいいのか。

 

その闇によって上がってくる自分の闇を

選ばないと意志することもあるし、

その自分の中に出てきた闇を受け入れ、

その闇を感じるままにすることもある。

 

コースの赦しは簡単じゃない。

 

これは何も起こってないこととして赦す、などできない。

何も起こってないと「わかる」には、相当な心の訓練がいる。

そして何も起こっていないのだと本当に知るとき、世界は終わる。

そのぐらいの強い赦しなのだった。

 

だから闇が襲ってきて、

もう自分ではどうやっても切り替えることができないとき、

いや、はっきり言って、

「これは幻想であって、何も起こってないのだから赦します。

恐れではなく愛を選びます。」

と言うことによって心が穏やかになっていく。。。なんてことはない。

なったことあっただろうか?(私の場合ですが)

 

実際「愛を選ぶ」ことなどできない。

(と、雲黒斎さんも言っていた)

 

「あ、愛ね。愛の方だった。」

と言って、目の前の闇を即座に愛で見ることなどできるだろうか。

 

可哀想だと言って見るのとは違う。

それはどこか自分ごとじゃない、突き放した見方のように思える。

 

 

でも意志を持つことはできる。

 

「これを闇としてみている見方は間違っている。

愛を選びたい!だが今の私にはどうしても愛を選べない。

だから聖霊よ手伝ってくれ。

私の代わりに愛を選んでくれ。」

 

 

この意志、ほんの少しの意欲、

それがあればいいとコースはいう。

 

私は失敗するかもしれない。

兄弟を神の子だとみれないかもしれない。

だけどイエスは手伝うと言ってくれる。

コオさんの動画でそんな言葉をもらった。

 

聖霊にお任せ~ではなく、

そうしたいができない自分を認める。

だが、そうしたいのだ!と。

 

どんな方法でもいいから、私を癒してくれ!

どうすればいいのか、教えてくれ!と。

 

その答えはすぐには来ない。

見かけた動画から、見かけた文章から、それはやって来る。

 

「カオスがやってくるとき、もうそれはいらない!

金輪際欲しくない!と、変えていく決意のためにやって来る」

 

と、この動画は言っていた。

まさに今の私の状況だ。

 

そういう言葉によって教えられる。

 

やがて全然違う方向から愛がやってくる。

「こうなったら愛よね」という私のちょこざいな考えとは全く違う方向から不意にやってくる。

 

癒しは、自分でできるものではなく、

やってくるものだ。

 

愛も選べるものというよりは、

そこに湧きだしてくるものだ。

自分で意図してできることじゃない。

 

癒しも、愛の選択も、

自分じゃできない。

 

ただそうありたいという意志を持つ。

 

そんな心の今日この頃。

 

 

 

 

 

 

 

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変な形の織部

 


 昨日地域のお祭りがあった。

 

 

このお祭りには毎年わが陶芸教室の生徒たちが出店してきた。

私も去年その仲間入りをした。

 

だが今年はその主催者側の40周年記念とかで式典が催され、私たちは出店を断られる。

だが蓋を開けてみれば、二日間のお祭りのうち、二日目は通常通りのフリーマーケットや焼き鳥などの出店があった。

 

うちだけ外されるのはどういうこと?

いやいやこれは式典のせいで外されただけだから、

来年は出店できるはずと思いながら、その代表の方に打診をしてみた。

 

すると来年は来年でわからないという返答がきた。

どういうこと?うちだけ外されて他はいいってどういうこと?

 

私の心に動揺が走った。

確かにうちの先生は嫌われている(笑)。

でも地域の人々に喜びを提供するというコンセプトであるのに、

その地域の人間が外されていいのか?

 

「なんだ~出店してないのか~。

つくしさんの器が買えると思ってきたのに~」

と言ってくれたりするとなおさら。

 

そう思った時ハッとする。

私は結果を求めている。

こうあってほしいという思いがある。

だからそうならないことに苛立つ。

 

この世界を実在させ、この世界に固執している自分がいた。

そんな自分を赦し、お祭りの実行委員の持ち場に戻った。

 

 

 

そこである町会の会長と知り合う。

彼は来年もこの同じメンバーで祭りを支えていこうという。

 

来年。。

ふと心が重くなる。

 

来年の陶芸の出店も実行委員のメンバーも、ここにない空想の世界。

今目の前にあるものがすべて。

未来は架空の話。

 

世界は今しかない。

そういう言葉がだんだん本当のことだと思えてくる。

しかもその目の前に展開している世界も存在しないらしい。

 

人々が未来にフォーカスするのは、

今というものが受け入れられないから未来にそれを託す。

だがその未来が来ても「今」だ。

ずっと今であり、それが嫌で未来へ未来へ心は前のめりになる。

 

私が来年の陶芸出店に固執するのは、今そこにないから。

出店できないもどかしさが、来年の保証をを求めて代表者に打診していたのだ。

それが安心感をもたらすと信じていたが、それこそが不安をもたらす。

 

代表者の方が「わからない」と言ってくれたのは、

私にその架空の期待があることを教えるためだった。

 

 

 

今というものも、実は何もわからないものだ。

そのわからないということがなぜか安堵になってくる。

 

ああなってはいけない。こうなってもいけない。

いけないからこうする。いけないからこうしない。

みんな未来からくる不安。

 

それは未来を知っているという信念からくる。

ニュートンの法則を知っているからくる不安。

医者が言うからくる不安。

情報が教えてくれる不安。

常識が教えてくれる不安。

 

そんなものみんな取っ払うとただアホになる。

 

アホのまま、そこにいる。

 

何も知らないと言うのはなんて愉快なのだ。

 

頭の中で愉快な音楽がなっている。

 

口をあんぐり開けてお空を眺める。

 

心が広がっていく。

 

 

 

 

 

 

 

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