これから脈々と書き紡がれてゆく有り触れた言葉の連なりに、殊更、親しげな視線の温もりを注ごうと努めている多くの人々はみな、たった今、目撃しようとしていたはずの──あるいはたった今、目撃したばかりの──野心的な創造力に満ち溢れた真のフィルムがセーヌ右岸16区と左岸15区を堅牢堅固に結びつけるビル・アケム橋の上で悲痛の咆哮を立てる、枯葉のような駱駝色のロングコートを身に纏った異邦人──その衣裳の色彩感覚(だけでなく名前を喪った二人の男女が逢瀬を重ねるアパルトマンの装飾や霞硝子の向こうにぼやけた人影を収める曖昧な構図)は表象に徹しうることの出来なかった画家フランシス・ベーコンが描き出した悪魔的可塑性を備える光に漲った絵画作品に基づいて整えられた──を至って克明に捉えてしまう冒頭場面に現在進行形の感動を憶えながらも、ことによると一瞬にして融けかかってしまいそうな真のフィルムが原型自体を見失い、われわれの眼の前から《過ぎ去る》ことなく、ただ只管、そこに存在し続ける現実を訝しげに見つめているうちに二十世紀最大の秀作『ラストタンゴ・イン・パリ』が如何にあらゆる神経をスクリーン全域に集中させておかなければならない映画であるのかと言うことを認識せざるを得ない状況に直面したのではないだろうか。

 

 

 例えば鼻腔から咽頭、果ては頭蓋骨の湾曲面までに立ちこめる真夏の熱気に蔽われた仄暗く狭い部屋の中ではじめて『1900年』に接触した際がそうであったように──その日、わたくしは大瀧詠一の瑞々しくも物憂げな一篇の歌曲の題名に刻まれた愛らしい名前の響きと同様の名前を名付けられた少女(彼女はリタ・ヘイワースよりも美しく、ジョーン・クロフォードやキム・ノヴァクやローレン・バコール、そして、あのミッキー・ルーニーに恋をしていたときのエヴァ・ガードナーよりも麗しかった)と自宅付近の鄙びれた公園にて豊かとしか表現の仕様がない時間を共有したのち、明日には某国立病院への入院(激しい眩暈と原因不明の意識消失症状のため)を控えているにも関わらず一切の荷造りに着手する素振りさえ見せず、就寝までの儚く貴い五時間一五分を『1900年』にのみ費したことを今でも鮮明に思い出す(既に《過ぎ去って》しまった時間であるはずなのに)──、事実、この映画にはもう二度と邂逅えないのではないかと錯覚し、すべての場面やショットを記憶に留めておこうと試行するも贅沢な上映時間がまたぞろ《過ぎ去って》ゆくと、たった今、記憶したばかりの潜在的映像が均衡を崩し始めると言った信じがたい現象が、傍観者たちを感傷的な世界にへと誘い込む今作にも生ずるのだが、あからさまな肌と柔肌の触れ合いによって画面と言う稀薄な表層に官能性を息づける『ラストタンゴ・イン・パリ』は辛うじてそうした現象からわれわれを解放してくれるうえ、これは自然界の中に図らずも発見された正真正銘の美であると確信できた光景のみを捉えたまま離さないヴィットリオ・ストラーロの秀れたキャメラが頽廃したパリの街並みに別れを告げ、断るまでもなく無機質になった世界に悠々と浮かぶマリア・シュナイダーの白く柔らかな肢体をもっとも艶かしく照らし出した瞬間には──勿論、美形の女優とは一線を画す肢体(女優たちの下腹部に密集したヘアに対する意識が芽生えてはいなかった少年時代のわたくしは、楕円形の鏡が配された洗面化粧台の前──もしくは楕円形の鏡が配された洗面化粧台の前で髭を剃る中年男性の真横──に佇む女優が自ずと身体を半回転させたがゆえに露わとなったヘアをなかば唐突に垣間見てしまったとき、不可思議な失語感を自身の内部に感じ取った)だけが艶かしさの対象であるわけではなく、渦巻いた褐色の髪や宙に迷ううつろな瞳もまた艶かしさの対象ならしめる──真のフィルムにしか喚起されることのない無償の感動をも与えてくれる。

 

 

 本来であればこの最終段落に於いて最終段落には些かたりとも相応しいとは思えない事柄、即ち、常に楽天家としての役回りに才を顫わせてきたジャン=ピエール・レオの滑稽さ──なるほど、映画そのものと化すジャン=ピエールが深刻かつ不安定な精神状態を徹底して顔や頬の演技に固定させていた『ママと娼婦』や『コントラクト・キラー』は、だから傑作にへと昇華されたのかもしれない──が映画に齎す作用の法則について、更には終幕間際に登場するダンス・ホールでの瀟洒なタンゴがスクリーンに齎す恍惚感について言及することで、決して《過ぎ去る》ことのない神秘の映画体験を無神経にも消費してしまう忌々しい遇者たちを専ら知的に糾弾できるのだが、終始、不穏でいびつな空気感を放って止まない『ラストタンゴ・イン・パリ』の真髄は細部に散りばめられた謎や問題を肌理細やかに語ってしまわぬことにあるため、わたくしはたった今まで書き紡いできた文章の流れ、はたまた動きを潔く断截し、あとは有り触れた言葉の連なりに、殊更、親しげな視線の温もりを注がれてきたはずの映画狂──あなたはもう映画狂に生まれ変わったのだ!──が観客の取るべき正しい態度を真摯に示しながら、再び『ラストタンゴ・イン・パリ』を目撃し、反芻してくれることだけを信じてペンを置く。

 

※第2回:2月24日土曜日更新※