家族や周囲の人の反応が気になって、
自分の気持ちが分からなくなることは
ありませんか。
何かを決めようとすると、
「反対されないだろうか」
「間違っていると言われないだろうか」
「誰かを怒らせてしまわないだろうか」
と考えてしまう。
自分ではこうしたいと思っているはずなのに、
相手の顔を思い浮かべた途端、
何を選べばよいのか
分からなくなることがあります。
私も長い間、自分の言葉や行動を
一つひとつ立ち止まって考えることが
当たり前になっていました。
けれど、今振り返ると、
自分の気持ちが最初から
分からなかったわけではありません。
周囲の反応を気にするあまり、
自分の心に問いかける前に、
「これはしても大丈夫?」
「こう言ったら、どう思われる?」
と考えることが習慣になっていたのです。
就学前の私は、
思ったままに行動する子どもでした。
座ってお人形遊びやままごとをするよりも、
外で体を動かして遊ぶほうが好きでした。
女の子の中に入れず、
いつも男の子と遊んでいましたが、
自分が女の子であることも、
一緒にいる子が男の子であることも、
特に考えたことはありませんでした。
ただ、自分がやりたいと思う遊びを
選んでいたら、結果として男の子と
遊ぶことが多かっただけです。
周囲からどう見られるかよりも、
自分が楽しいかどうか。
それが、当時の私の自然な判断基準でした。
ところが、小学校に入ると、
その感覚が少しずつ変わっていきました。
帰りの会など、一日を振り返る場面で、
私の行動が何かと
取り上げられるようになったのです。
ほんの2、3歩小走りしただけなのに、
まるで廊下を全力疾走していたかのように
言われたこともありました。
私はどちらかというと、
真面目すぎるほどルールを守る子どもでした。
それでも、
揚げ足を取られるような
出来事が何度も重なりました。
何かをすれば、
どこかで誰かが悪く言っている。
けれど、なぜ否定されるのか、
私にはまったく理解できませんでした。
私は自分を
「悪い子」
だと思っていたわけではありません。
むしろ、
「ルールを守っているのに、
なぜ言われるのだろう」
「何がいけなかったのだろう」
と、理由が分からず戸惑っていました。
自分の行動を、
いちいち確認するようになりました。
否定される理由が分からないからこそ、
私は自分の行動や言葉を、
いちいち立ち止まって考えるようになりました。
「今の行動は間違っていなかった?」
「あの言い方で大丈夫だった?」
「また誰かに何か言われない?」
もちろん、
自分の行動を振り返ること自体は
悪いことではありません。
けれど私の場合は、振り返るというより、
周囲から否定されないために
自分を監視するように
なっていたのかもしれません。
中学3年生のとき、担任の先生から
「考えすぎ」
と言われました。
けれど、その頃には、
何かをする前に立ち止まることが
当たり前になっていました。
自分がどうしたいかより、
周囲にどう思われるか。
自分の感覚より、誰かが決めた正解。
そうして少しずつ、
自分を見失っていったのだと思います。
家庭でも、
母の言うことが日によって
変わることがありました。
昨日は「Aがいい」と言っていたのに、
翌日には「どうしてBを選ばないの」と怒られる。
怒られることが怖くて、
自分の希望を言えないこともありました。
私は、
正解
を探していたのだと思います。
けれど、その正解はいつも相手の中にあり、
しかも日によって変わります。
これでは、
自分の気持ちが分からなくなるのも
無理はありません。
そんな私が少しずつ
自分を取り戻していったのは、
高校時代でした。
理数系のクラスには女子が5人しかおらず、
周りは個性的な男子ばかりでした。
けれど、
そこでは自分の意見を
否定されることがありませんでした。
男子同士のやり取りを見ていても、他
人を悪く言う人はほとんどおらず、
それぞれが自分との違いを楽しんでいました。
「そんな考え方もあるんだ」
「自分とは違うけれど、それも面白い」
違いは、否定するものではありませんでした。
何か特別な出来事があったわけではありません。
ただ、その環境で過ごすうちに、
私は少しずつ、
「違っていても大丈夫」
「私は私のままでいい」
と感じるようになりました。
新しい自分に変わったというより、
就学前の頃の、
人の目を気にせず動いていた自分を
思い出していったのだと思います。
自分で決めて、自分で行動する。
それは、とても心地よいことでした。
その心地よさが、
少しずつ私の判断の基準になっていきました。
高校卒業後、私は理学療法士になるために
進学することを決めました。
母からは、
「なぜ就職しないのか」
と、進学そのものを否定されました。
それでも、自分で手続きを進め、
受験しました。
入学式の後の保護者説明会では、母から、
「あんたには、
あのような仕事ができるとは思えない」
と言われました。
けれど当時の私は、
その言葉に反発して進んだわけではありません。
「できると思った」
「やりたいと思った」
ただ、それだけでした。
だから、母の反応とは別に、
自分で決めた道を進みました。
実際に理学療法士になると、
患者さんが回復していく過程を見ることが、
とても面白いと感じました。
患者さんの様子を観察し、
小さな変化を捉えながら、
リハビリの方針を
直感的に決めていく自分もいました。
自分にとっては
自然にしていたことでしたが、
後輩から、
「なんでもすぐに取り入れて、
できるのがすごい」
と言われたことで、同じ職種の中でも、
自分には自分なりの見方や
判断の仕方があるのだと気づきました。
周囲と違うことは、
否定される理由ではありません。
違いは、その人らしい力になることもあります。
今振り返ると、母の否定的な言葉も、
私の能力を正しく見て判断したものでは
なかったのだと思います。
母自身が、
「こんな仕事は自分にはできない」
と感じ、
その価値観を私に重ねていた
のかもしれません。
現在も、母自身の価値観による
否定的な言葉が出ることはあります。
けれど今は、
母の反応と私の選択は、別のもの
だと分かります。
相手が不安になることと、
私にできるかどうかは別の話です。
相手が否定することと、
私が本当はどうしたいのかも別の話です。
自分の気持ちが分からないと感じている方も、
本当は何も感じていないわけでは
ないのかもしれません。
これまで周囲の反応を優先してきたため、
自分の声を聞く前に立ち止まることが
習慣になっているだけかもしれません。
だから、誰かの反応が気になって
決められなくなったとき、
私はこう問いかけたいと思います。
他人の反応をいったん横に置いて、
本当はあなたはどうしたいですか?
すぐに答えが出なくても大丈夫です。
「私はどうしたいのだろう」
と自分に尋ねることが、
失っていた自分の感覚を
取り戻す最初の一歩になります。
誰かにどう思われるかではなく、
自分はどう感じているのか。
正しいか間違っているかではなく、
自分は何を大切にしたいのか。
その小さな問いかけを重ねることで、
自分の気持ちは少しずつ見えるようになります。
次回は➡母が変わったのではなく、私が振り回されなくなっていた

