夏至といえば節目。


先日も
なんとなくおめでたい気分で迎えたものの、

朝からうちの裏でツバメが死んでるのに遭遇した。



まだ死んだばかりのような
息があってもおかしくない姿だった。



直接触れないように気をつけて庭の桜の木の下に埋葬し、あれから時々お線香あげてる。



まだ口の根本に黄色いのが残ってて、今年巣立ったツバメのようだったから、ぶつかったのかなんかしたのかもしれない。



見ず知らずの生き物が死んでたってギョッとするだけで特別悲しくもないけど

つばさのあるものは、なんだか特別な気持ちがする。


野鳥は死ぬことすら尊重されてるよね。









私はツバメの死を目撃する何日か前から、
また性懲りもなく小鳥を飼いたいという気持ちが強くなっていてね。



夏至の日の午後は、普段あまり行かない所へ少し遠出して、小鳥を販売してるホームセンターに出かけたんだ。


なんか、やけくそもあった。
小鳥が好きなのに、目の前で死んで転がってることないじゃない。


だから、生きてる小鳥を見たくなってね。






最初は、マメルリハ目当てで遠出したんだよ。近所にいないからさ。


でもいなかった。


ツバメ は死んでるわ、目当ての小鳥はいないわでしょうもない夏至だわねと思ったの。



それで落ち込んでふらっと他の鳥を見てたらね




真っ青なサザナミインコが私にウインクした。


こじんまりしてボテっとして、その割に大きな瞳をゆっくりとウインクした、
みたいに見えた。



何て可愛いんだろうと思った。
それまでに蓄えたマメルリハに対する愛をあっさり超えてしまったのだ。
というか、マメルリハの実物見たことないし。
しょうがないよね。実物を見ちゃったんだから。




それから飼いたいなって本当に思うようになった。
私は、自分のそんな気持ちをここ何日か観察してる。

愛玩のために飼育する鳥のことをコンパニオンバードというのだそうだ。
ちゃんと家族の一員として愛されて、生き方を尊重された鳥のことだ。


私からしたら、シジュウカラもツバメもインコも鳥に見えていた。


実際、一緒だろう。


人の価値観のために区分けされているのだ。
鳥の尊厳のために。


ツバメの死と、インコの死の扱いは違う。
私の中でも明らかに違っている。




私には何が鳥にとって良いかなんて本当のところわからないけど、
そばにいて欲しいと思う気持ちがある。
つばさとクチバシと脚に愛くるしさを感じる。



ツバメが目の前で死んでなかったら、こんな面倒くさいことを考えることもないんだけどな。

つまり、鳥を飼うことがどうとかじゃなくて、

単に私の中で何かを決着させなきゃいけないような感じがあるだけなんだけど。



結論ね
人が鳥を世話したいと思うことが人間の勝手だと思うのはおこがましいと思うんだ。


人が鳥を飼いたいと思うのは、それもやっぱり鳥の作戦なんだよ。種の保存っていうか。


環境に合わせて進化することも、その環境に依存するってことも、生き物は散々やってきた。


猫だって、人間の隣にいることをすっかり選んだ。


必要な環境が崩れれば生きてはいけないのは、どの種も一緒。
人間だって、何かの手元にいるんだ。


つまり、ペットの小鳥も、野鳥のツバメも結局変わらないっていうかさ。


野鳥に対する死生観と、飼育する鳥に対する死生観を区別することはきっとないんだよ。


というか、私はヒトに対する死生観も一緒な気がしてきた。


長生きすればするほど良いのか、鳥が野生で自由にしていることが良いのか、ヒトの庇護を受けて愛されるのが良いのか。

小鳥はそういうことを散々問いかけてくるわ。
きっと、ヒトより歴史が長いから、教わることも多いのだ。


人が小鳥を可愛がりたいと思うのすら、種の意思というか。それこそ神様の思し召しというか。
ノアが神様に箱舟を作れって言われた時から、動物を助けることはヒトが与えらた役目なんだ。
大昔では、動物のためにわざわざ箱舟を作るなんてイカれてたんだよ。
食うものもろくにない砂漠の土地だよ。
しかも、洪水に備えて。

今でも、災害時には見捨てることの方が常識人的なことない?ないか。どう?
動物のためなんかに税金を使えるかって人がきっといるじゃない。


可愛らしい、愛しい、いつまでも一緒にいて欲しいと寄り添うことはもう遺伝子に刻み込まれててさ、ヒトの勝手っていうより、もはや鳥にそう思わされてるのかもしれないじゃない。


ヒトには最後まで飼育する責任があるのだ。
と決めつけてしまうことの方が、鳥にとっては不自由な場合だってきっとある。


そんな愚かな決まり事よりさ、
愛おしいという感覚を生涯大事にすることが、ヒトのためにも、鳥のためにもなるのだ。
ってのをみんなで大切にすればいいんだ。


結局、目の前の命を大切にすることには変わりないけどさ。
産まれた鳥が幸せになるかは、親鳥にはどうにもできない。


飼われることに向いてない子も産まれてくるだろうし、飼い主と相性が合うかどうかなんて最初からはわからない。
それは、野生と同じだ。

どれだけ人の手がかかってても、人がその運命を握ってるわけじゃない。



環境が変わってしまい、飼えなくなった。世話できなくなったという時のことを考え過ぎても、

ヒトに愛される道を選んだ小鳥たちの、種を存続する可能性は狭まる。


それは、人の手に委ねられてるように思われるけど、きっとその小鳥たちは選んでると思う。


いかに、住みやすく、たくさん子を成し、幸せで愛されて生きるか。ってことを選んでると思う。


それは、野生の中で進化する過程と同じような段階を踏んでるんだきっと。


だから小鳥の飼育は、まるっきり人の勝手というわけでは無いよ。





人の勝手というのは、
愛情や愛おしさを無視して人の社会に合わせて飼育することだ。

馬鹿みたいに増やすことも、馬鹿みたいに制限することも、人の勝手だ。

全て人の計画通りで、なんの期待もされずにいる小鳥は、たしかにカゴの中の鳥だ。


出産もしてくれなくていい、沢山飛ばなくてもいい、大きな声で鳴かなくてもいい。
時々、綺麗な鳴き声で慰めてくれればいいから。



は?

ってなるね。
人でもなるね。






だから、なんて言うか。




結局なに?っていうと、




サザナミインコがめっちゃ可愛いかったですハート









メダカも可愛いハート