このブログ始めた時も、刺し子始めた時も

なにする時も

気持ちの中にあるのは

私が私のままでいられる世界を自分で作ろうと思っていること。

少しずつ拡がってきて

少しずつ具体的になってきてる。









小さい頃、大切な物を失うのが怖くて持たなければいいと思った。



現実にそこにあっても、私とは切り離した。



それが大人として振る舞うってことだと子供心に思った。



たとえ私の前からいなくなっても、私は傷つかないだろう。


友達も家も家族もその土地も。


切り離すための線を引いたらどんどん溝みたいになっていく。



何も持たないのは自由だったけど


何を指針に動けばいいのか


そのうちわからなくなった。


大切なもの、大切な考え、大切な人。


大切な物を持たないというのは


"大切に思う"という感覚を捨てることだった。


だんだん地に足がつかないのが苦しくなってきた。


大切に思うものが無い世界で生きるのが辛くなってきた。


そんな世界に何も期待できなかった。


何人の恋人を作って好きだと言ってもらっても何も満たされなかった。










いつの間にか、大切な物がある人が羨ましくなっていた。


失いたくないものを持っている人が羨ましくなっていた。


だから、震災で何千人も死んだ時、土地を奪われて家族を奪われて悲しんでいる人を恨んだ。


あなたには失うものがあっていいねって思ってた。




わたしには失うものすら無いのに。って。






だから、夢だったの。


心から失いたくないと思うものを持つのが。


失った時の悲しみを知ることが。


なんて豊かなんだろうと思った。


これからは、失うかもしれないという考えはさっぱり捨てようと改めて決意した。


どうせ失うからといって妥協するのは金輪際やめようと思った。


失った時にはとびきり悲しんでやろうと思うよ。







6歳の時から、失うかもしれないからという前提で人付き合いをしてた。


でも、たった一人だけそうじゃない人がいた。


失うとか失わないとか関係ない人に会っていた。


家族でもない友達でもないなんでもないけど、私を知ってくれている人。


何にも取り繕う必要のない人に会っていた。


ひろ先生(旦那さん)がそういう意味でわたしにとっては貴重なたった一人の人間だったんだなぁと今頃になって振り返る。









失ったらどうするんだという恐れの中で過ごしなさんな


未来への恐れを煽る人の言うことを聞くなよ


恐れを原動力にして動くな


恐れはそばにいて見守ってくれとるだけじゃけんね


今を精一杯感じなよ







私が

過激にロマン主義でいるのは



そうやって叱ってくれる人が周りにいなかったからかもしれない。



テレビやネットニュースでは、将来の幸せな未来を失う恐れを煽る情報がダラダラと流されたりして



未来に幸せになることを目指して今を過ごすのが当たり前だと感じさせられる




将来のために、今我慢する

将来のために、今苦労する

将来のために、今を楽しむ




将来と今との時間の差は一生縮まらないことを知ったのは大人になってからだった。



そんな考えでは

一生我慢して、苦労して、楽しいふりをしなきゃいけない。



それを甘んじて受け入れている世界が気持ち悪くてしょうがないんだ




私の見える範囲くらいは

そんな世界から、今の感覚を大切にすることが当たり前な世界にしたいなって思ってる。







奈月