羽が落ちてた時にショックと同時にすごい気持ち悪い自分を見つけた。


助けるって拾ってきといて1ヶ月ちょっとで死なせてしまったらかっこ悪い

って。


思考の癖みたいなのが出てきた。


ゲッて思って、通り過ぎるの待った。


まだまだ自分を良く見せようとする思考がでてくる。


落ち着いたらやっと純粋に悲しみが覆ってきた。


思えば、

こうやって、

今までこんなクソみたいな思考を受け流す練習を始めて早5年。

それでもいろんな思考が湧いて出るけど、観察できるようになったんだな。

思考でガチガチに感情をコントロールしていたことがはるか昔のことのように思う。




それにね、新鮮な感情を腐らせることなくそのまま受け取ったあとは

悲しいことがあっても、

もぬけの殻にはならないってことがわかった。


思考で感情をコントロールしようとして、

感情に抵抗したり、

感情を捻じ曲げたりするほうがよっぽど長引くし、いつまでも辛かった。



私が悲しいのは、鳥そのものの肉体と離れてしまったことじゃない。


鳥に心を許していた、鳥が大好きだった自分と離れる気がして悲しかったんだろう。


何かを愛している間は忙しくても満たされた時間で、とても幸福だった。


そんな幸福な自分と別れる気がしたんだろう。





だから、悲しみを自分の内に感じた後は

どんな自分とも離れるわけがないことを実感した。

だってそこにちゃんと悲しさがあるから。

動機や身体のだるさ、涙や痛みとともに。





そしたら自然に、愛させてくれてありがとうって思った。

何かを愛せる自分にさせてくれてありがとうって。




そもそもね

日頃の自分の感覚をひたすら見て、

自分で決めて、罪悪感にむきあってっていう

コツコツした細かな選択があったから

あの子と過ごす時間を作れたと思う。

    





それまでの私なら、

ちゃんと労働しなきゃいけないとか

動いて生産性の良い事をしなきゃとか

自然の命に手を出すべきじゃないとか

ごちゃごちゃ考えてたし

自分の環境もごちゃごちゃのままだっただろう。

心の楽を優先して、恐れのままに動いて、遠慮と称して他人の気持ちを優先して、体裁を守るために動いたままでいたなら





あの世話のかかる子と、ゆっくり時間を過ごすことを選べなかっただろう。




だから、私の日頃の努力(自分の身体を楽にする努力ね)が積み重なって

あの子と出会えたんだと思う。


あの子と過ごす幸せな未来が純粋に見えたから、謎の生物が可愛く見えたんだろうな。




今居ないことより、一緒にいたことのほうが大きい。


飛べるようになったらわたしにはできることは無いと覚悟ができていたし、


どっかで生きててと祈るつもりだった。


巣立ったまま帰らずにいればこんな風に思い出すこともなかったし、喪に服すこともなかった。


私の目と鼻の先で羽根が落ちていなければ、こんな気持ちになることはなかった。


わざと羽根だけを落としていったんじゃないかな。


あの子は私のことが好きだったし


私も好きだったから。


ずっと私の心に居たかったのかもしれない。



悲しみを乗り越えるというよりは、

悲しみをたずさえていくことを決めた。




悲しいことがあったときにね、


現実を都合よく変えることはできないけど


それをどう受け止めるかは自分で決めてもいいんだって。


だから、私は精一杯幸せなストーリーの脚本を作るつもり。






奈月