また、やってしまった。そうした後悔だけがまた私の胸を締め付ける。私はいつドイツ語になると文法の間違いや言葉の間違いを恐れ、人前で意見を言えなくなってしまう。
そしてその"言葉での間違い"というものを全て、自分が"今考えている意見"とくっつけてしまい、
言葉ができないことと、自分の考えや意見が未熟であることを混合してしまう。そして誰かにその
意見を言われてしまい、私の意見はすべて後付けや、パクリという扱いになってしまう。自分が
少し恐れを感じてしまい、チャンスを逃したばかりに。言語の未熟と、考え方の未熟は紙一重な
ようで別のものであるのに。
私はドイツ語を始めた時から、「言語の未熟さ」と「考え方の未熟さ」を混合してしまう。
確かにこの二つは似通っているように思える。
特に生まれた時からではなく、私のように大人になってから他言語を始めた場合、考え方の成長から遅れて、その他言語で、つまり私の場合は「ドイツ語」で物事を考えるということが始まる。ここで問題になってくるのが、相手に自分の考え方を伝えたい時である。考え方は成長してはいるものの、それは頭の中では日本語で構築した理論であり、それを伝えようとすると、言葉を構築する技術が
未熟であるため、どうしても本当に「伝えたいもの」と「伝わるもの」との差ができてしまう。
しかし脳というものは不思議で、だんだんと日本語からドイツ語でも物事を考えられるようになるが、やはりそれは自分の知っている他言語の知識の範囲でしか、考え方を脳内で構築することが
出来ず、ここで考え方と、捉え方の矛盾というものが生まれるように私は感じる。
文章で伝えるのは非常に難しいが、私の感覚では、ドイツ語で物事を考える自分は、まだ子供の
ような未熟さを感じ、言語ができないだけで、周りの人間から、全ての分野においての劣等感を
感じるのである。
ドイツに来てからというもの、この悔しさというのは幾度となく味わった。周りにいる人間は
ドイツ人のみという大学生活の中で、どうにかして自分の意見を伝えなくてはならないが、
それを伝えられないどころか、発言さえ出来ず、その度に苦い言い訳をしてきた。
だがしかし、自分の考え方を伝えることができ、初めて人に信用された
あのなんとも言えない、鳥肌が立つような嬉しい感覚も私は忘れてはいない。
そして今、またその悔しさを目の前にして、なにかを忘れたいがために
タバコに火をつける。
私は自分の言えなかった意見や悔しさを、煙とともに吸い込む。
深く、むせそうになるのを抑え、そして煙とともに吐き出そうとする。
しかし、残ったのは私の嫌いな、強い残り香と、胸を締め付ける痛みだけだった。
そして気がつく。煙を吐いても、洗っても簡単にはとれない、服と手についた
あの残り香に。