In the beginning was the Word, and the Word was toward God, and a divine being was the Word. This was in the beginning toward God. All came into being through it, and without it not even one thing came into being. That which came into being in it was life, and the life was the light of people.
この世の初めより言葉はあり、言葉は神のもとへと向かい、神に属するものとなった。神に向かう言葉がことの起こりとなった。言葉を通じてすべては存在するようになり、それなくしては如何なるものも在ることは能わなくなった。言葉において現れるようになったものは命である。命は人々の光となった。(キャロル訳)
ここにおける「言葉」とは、ギリシャ語における「ロゴス」のことを指しており、ギリシャ語を英訳したものが上記である。
わたしは、その出だしを若かりし頃、「In the beginning was the Word, and the Word was toward God, and a divine being was the Word. This was in the beginning toward God.」と諳んじて憶えた。今日では「In the beginning the Word already existed. The Word was with God, and the Word was God. He existed in the beginning with God.」(その初めより言葉はすでにあった。言葉は神とともにあり、その言葉は神であった。イエス・キリストは、その初めより神とともにあった。キャロル訳)と改訳され、それが一般であるようである。
かなり説明的かつ具体的であり過ぎる感は否めないが、そのほうがいまの人にとっては分かりやすいかもしれない。
だが、「初めに言葉ありき」との名訳に親しんだ身としては、やはり想像力を働かせせる余地がない分、ちと物足りなさを感じる。あまりにも直截的すぎ、インスクルータブルなというか、独特の不可思議さが湧いてこないのである。
そしてなぜ旧訳(「旧約」の意ではない)より心地よく感じないかといえば、その訳出には口唱するための、耳にまで届くリズム感に特徴がないからである。聖書を英文で読むときの心地よさは、仏教の、たとえば、般若心経を口に出して唱えるときの読経にも似て、その快適なリズム音を繰り返し耳に届けることにあろう。
だからといって、なにも新訳がよくないといっているのではない。言葉とは歌でもあり、呼吸でもある。そこにリズムがあり、息継ぎがあり、音の強弱があり、音の伸び縮みがある。平安時代の歌人、誰であったか憶い出せないが、そのひとは言葉は少なくとも、心は有り余っていたそうである。いわゆる「心多くして言葉足らず」だ。
リーダビリティとは単に意味の取りやすさだけを指しているのではなく、耳や口にも心地よさをも含んで言われているのである。言葉足らずであればこそ、想像力は働き、そこに深い感銘が蓄えられるのである。