「死」とは何か? | 月灯りの舞

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自虐なユカリーヌのきまぐれ読書日記

死に携わるお仕事の方、いわゆる“おくりびと”な方と話すと、
「死」に対して淡々としていることを感じることが
多いと思う。

しかし、残された者に対しての視点は 鋭く熱く、
慈悲に満ちている。

死者に多く触れるということは 
遺族にも多く触れるということだ。

ある「死」を持って、死者と生者に別れる。
逝ってしまう人と取り残される人。

その時、残る人は それぞれ
どうやってその「死」を受け入れるのだろうか。

おくりびと と話していて、そんなことをふと考えていたら、

今月の「日経おとなのOFF」の特集は
『死とは何か 臨終の作法とは』だった。

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実用的な「死」の準備に関することや
「死後」の葬式やお墓等の雑多な基礎知識。

それも重要なことだけど、
歴史上の人物たちの「最期の言葉」とか
「死の準備」が興味深かった。


「ねがはくは 花のしたにて 春死なむ
          そのきさらぎの 望月の頃」


と、歌った歌人 西行は、
この歌を詠んだおよそ十年後の桜の季節に
歌通りの大往生を遂げた。


武将 豊臣秀吉の辞世の句は

「つゆとおち つゆときへにし わがみかな
  なにはの事も ゆめの又ゆめ」。


(露が落ちて消えるようにはかないわが身、
 天下統一も何もかも、夢のようだ)


秀吉に仕えた黒田如水は、
軍師として活躍したが、後に出家し、
俗世を離れたためか、
静かな想いに辞世の句を詠んでいる。

「おもひをく 言の葉なくて つゐに行く 
   道はまよはじ なるにまかせて」


(思い残すことは何もない。迷うことなく、
 なるに任せて旅立つときだ)


 
「死とは何か?」という問いに

脚本家の山田太一は
「死とは生者のためのもの」と答え、
「死者を意味づけし、死者をとらえることが、
 生きているものの役目であり、どうとらえるかで、
その人の人生に意味があらわれる」と語る。

ドラマや映画で数多くの人生を書いてきた山田太一だが、
「死」そのものは作品中に極力描かないように
してきたという。


村上春樹のディープな読者でもある内田樹は
「死と文学」のコーナーで、
「村上春樹と『死』と『現実(リアル)』」と題し、
死の匂いに満ちた村上作品から、本質を射抜いている。

「死は生の対極としてではなく、
 その一部として存在している」 

          (「ノルウェイの森」より)



「絵本が語りかける『死』」とか
「西洋名画に込められた死への思い」では、
死がテーマの作品がそれぞれカラーで紹介され、
読み解かれていて、一番興味深かった。


「宗教が用意した死の答えと死後の世界の比較」や
「古典と芸能に見る日本人の死生観」も
様々な「死」の概念や思想が登場し、
死について考えさせられる。

絵画の中にも文学の化にも
エロスと死は密接に関わりあっていることを描いている。

とめどないエクスタシーの先が「死」なのだろうか。
「死」を恐れぬために「快楽」の道筋をつけたのだろうか。

一度の「死」なら、
願わくば、絶頂の先端で共に「死」を迎えたい。


月灯りの舞
同じく「おとなの~」とつく雑誌名だが、
こっちは「おとなの週末」12月号。
銀座の美味しいものと東京スカイツリーと
下町グルメ特集。

おいしいものを食べられるのも
生きて、元気でいればこそ。