首都・サラエヴォ ~紛争の歴史を今に伝える街~
ボスニア・ヘルツェコヴィナの首都・サラエヴォ。
僕がサラエヴォと聞いて思い浮かんだのは、以下の3つ。
①サラエヴォ事件
②サラエヴォオリンピック
③ボスニア・ヘルツェコヴィナ紛争
上記は全て、聞いたことはあるけど、詳細は特に・・・といった感じ。
まあ、①は生まれてもいないし、②はまだ1歳。
この中で、一番興味があるのは、やはり③。
唯一のリアルタイムということもあるが、まだほんの15年ほど前のことである。
日本で戦争と聞くと遠い昔のようだが、ここではごく最近のことだ。
日本ではもう中々知ることの出来ない戦争について、もっと感じたいと僕は思った。
ボスニア・ヘルツェコヴィナの首都・サラエヴォへは、モスタルから3時間弱のバスの旅。
さすがに国内主要路線なことはあり、1日に10本近くはあった。
ちなみに料金は18KM+荷物代(1つにつき1KM)。
※1KM=60円弱
サラエヴォまでの道中は、国内でも屈指の景勝地と知られている。

豊かな緑

道路と平行に走る川
ただ、そんな景勝地にも、紛争の爪痕が残っていた。

途中途中、目にした廃墟

隣の席のおっちゃんが、ここは地雷ゾーンだと教えてくれた
モスタルの記事でも書いたが、ボスニア・ヘルツェコヴィナにはまだまだ紛争の爪痕が残る。
サラエヴォでも、着いたバスターミナルを出ていきなり目に飛び込んできたのが、この光景。

砲撃による廃墟らしい
そのほかにも、当時のまま残された廃墟が多数あった。
サラエヴォでの滞在時間は非常に短かったため、旧市街の観光はざっと。

大聖堂

第一次世界大戦の引き金になった現場横のラテン橋

このミュージアム前でオーストリアの皇太子夫妻が狙撃された

旧市街の中心にある職人街

サラエヴォを走るバス。日本のODAで贈られた車両。

通称・スナイパー通り

紛争中、この通りを動くものは全て、ビルに潜むセルビア人狙撃兵の標的とされた @トラム
少ない滞在時間の中でどうしても行きたかったのが、郊外にあるトンネル博物館。

博物館の外観
ここは、紛争時に造られたトンネルの一部を公開しているところ。
当時のサラエヴォは旧ユーゴスラビア連邦軍(セルビア人)に包囲されており、
ボスニア軍は、唯一包囲網の盲点だった街の南西にトンネルを造った。

地図の赤い部分が旧ユーゴスラビア連邦軍。右上の窪みにあるのがトンネル。
このトンネルは、物資の輸送はもちろん、兵隊や医者などの人の行き来にも使われ、
外部と市内のボスニア軍占領地域を結んだ貴重な生命線であった。

トンネル内は、165cmの僕がギリギリ立てないくらいの高さ。
今は25mほどしかないが、当時は全長800mあり、人の行き来は24hあったという。
併設の博物館には当時の写真や新聞の切抜きが展示されており、非常に分かりやすかった。

洞窟の入口

洞窟内

洞窟入口の屋根は銃弾で穴あきまくり

トンネル博物館を報じる日本の新聞
展示されているものの中で一番衝撃的だったのが、映写室で流れるビデオ。
紛争時にジャーナリストや戦争カメラマンが撮影した映像を刻々と流しており、
日本では見たことがないような生々しく、グロイ映像だった。
今さっき通ってきたスナイパー通りは、銃弾の雨嵐。
子供を抱えた女性が懸命に走る姿や狙撃される子供の映像は、思わず目を覆いたくなった。
そのほかにも、さっきまで目にしていた建物は燃え、さっき歩いた道には人が倒れていた。
そう。
この映像で流れているほとんどの出来事は、
今のサラエヴォの街並みと変わらぬ中で起こっていたのだ。
その最たるものがこれ。
スナイパー通りに面し、紛争中は最前線まで300mという距離にも関わらず営業を続けたホリデイ・イン。
紛争中、ジャーナリスト達はここにたむろし、砲弾の音に首をすくめながら戦況を伝えたという。

現在のホリデイ・イン

紛争時のホリデイ・イン
現在のホリデイ・インに入ってみたが、当時の様子を伺えるものはなかったが・・・

吹き抜けの綺麗なロビー。フリーWi-fi入ります。

当時のジャーナリストの気分に浸るのもありでは
トンネル博物館は、市内から少し距離があるため、訪れる人は少ないらしいが、
サラエヴォに行ったなら、ぜひ訪れて欲しい場所です。
市内からは、3番トラムで終点のイリジャまで行き、イリジャのバスターミナルから、
32番か68A番のバス(料金は1.5KM)で行けます。

68A番のバスの終点が最寄バス停。ここから博物館までは徒歩10分弱。
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