平和の象徴の橋・モスタル ~紛争の爪跡が残るボスニア・ヘルツェコヴィナ~
これまで旧ユーゴスラビアの国々をいくつかまわってきたが、
「紛争の爪跡が今も残る場所」というのは、あまりなかった気がする。
どの街も綺麗に修復されており、活気に溢れる街も多かった。
唯一挙げるとすれば、アルバニアのトーチカ(ザク)くらいか。
紛争から15年程経ち、僕はほとんどの街は復興されたんだなと感じていた・・・
アドリア海の真珠を後にした僕は、内陸に向かった。
ボスニア・ヘルツェコヴィナのモスタルという街がとてもよいと聞いたからだ。
ドブロヴニクからモスタルへは、1日4便ほど直行バス(103kn)が出ており、3時間半ほどで着く。
アドリア海を離れると、周りの景色は緑一色へと変わる。
豊かな川に、豊かな緑が生い茂り、畑が幾重にも繋がっていた。

モスタルまでの道中
そんな美しい山間にある街が、モスタルである。
モスタルは南部最大の都市で、中心街は世界遺産に登録されている。
オスマントルコ時代より栄えた街は、美しいモスクが今も残り、どこか中東の雰囲気をかもし出す。
モスタルの街の象徴といえば、スターリ・モスト。

スターリ・モスト

川から見上げたスターリ・モスト
石で作られた橋で、美しい渓谷にかかっている。

橋から見た風景
その両岸にはお土産屋さんが立ち並び、橋の下を流れる川では、
魚釣りをしたり、川原遊びをしたりと、地元の人々が遊んでいた。

お土産屋さん

石畳で綺麗に整備されたストリート

スターリ・モスト以外にもいくつか綺麗な橋があった

魚釣り

川原で遊ぶ子供たち

ゆっくり流れる時間に、猫もこの通り
なんとも微笑ましい風景だ。
澄んだ川や綺麗な橋、両岸に立ち並ぶお土産屋さんやカフェ。
観光地化された中心街はとても綺麗だったのだが・・・
メインストリートから一歩離れると、僕の前には息を呑むような光景が広がっていた。




砲撃で倒壊寸前の建物とその前で遊ぶ子供たち
これは、もちろん銃弾や砲撃を浴びた建物である。
今も修復されずに残っているのは、
紛争を忘れないためなのか、直すことへの経済的負担からなのかは分からないが、
この建物たちは、たしかにここで激しい紛争が行われたことを意味していた。
街の至る所にある墓地には、真新しい墓石が多く、そのほとんどには1993年と記されていた。

旧ユーゴ解体時の紛争の中でも最も悲惨とされたボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争。
というのも、当時のボスニアでは民族間(ムスリム、クロアチア、セルビア人)の結婚が、
他の共和国より圧倒的に多く、それが何代にも続いていたためだ。
※当時のユーゴスラビアは「7つの隣国、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、
3つの宗教、2つの文字により構成される1つの国」と言われていた
民族間で起こったユーゴスラビア紛争は、ボスニアでは家族や恋人を殺すことを意味した。
※ボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争の詳細はこちら
表向きだけでは分からなかったが、今もモスタルでは紛争からの影響で、
街に住むムスリム人とクロアチア人の居住区は完全に分かれている。
居住区を分ける線はあの澄んだ川で、あの美しい橋こそ両居住区を分ける中間点であった。
オスマン帝国時代の16世紀に建てられ、以来モスタルのシンボルとなったスターリ・モスト。
この橋は、多民族・多宗教間のまさに“架け橋”としての意味も持っていた。
だが紛争中の1993年、何者かの手によって爆破されてしまい、“架け橋”は破壊された。
戦後、ユネスコと市民の協力の下、
“もう二度と戦争を繰り返さない”
という民族融和の象徴として、橋と周辺地区は再建され、世界遺産登録に至った。
僕は始め、このような背景は知らなかったので、
綺麗な橋だな~、綺麗な街だな~、としか感じなかった。
他の旅人から「綺麗な場所だから行くといいよ」と勧められたモスタル。
こんな程度の情報しか得ずに、ここまで来てしまったが、訪れることが出来本当に良かった。
僕はこの光景を一生忘れないだろう。
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