昨日は数年に一度のネガティブが発動しました。すごく辛い、辛かった。でも、普段の習慣のおかげでそれをそのままで置いておかずに、うまく処することができたと思うのでちょっと文字に起こしてみようと思います。

 

 自分がホトホト嫌になった、そして人生を変えた、というのは、日頃からフォローさせていただいている一華五葉さんの言葉です。毎日の朝活や移動中のBGMに彼女の発信を聴いている私には、様々な一華さん語録が頭に入っています。そしてふと、その端的でわかりやすい言葉の深い意味につながる瞬間があります。それが、昨日またひとつ起こりました。

 

 「自分がホトホト嫌になったんです。」

 

 私は昨日久々に、自分が嫌になりました。体調管理がうまくできない。その原因がわからない。そもそも原因があるのかないのかもわからない。原因を考えてみたところで、外側のせいにしているのではないか。何かしら感じているストレスがあるとしても、そんな風に感じるのは間違い、エゴではないか。無意識のうちに、どうしようもできない方向へ考えてしまっていたり、同じところをぐるぐる回ってきた数年だと思います。

 

 実際の悩みは、いつまで経っても理想の健康状態・容姿になれない自分。肉体の扱いがこんなにも下手になったのはいつからだろうか、と、何も考えず健康だった中学生のころまでを思い返しては、今の自分との違いを探してどうすればいいのか苦しんできました。問題が本格的に表面化したのは今から6年前。しかし、小さな変化は17年前から起こっていました。

 

 じゃあ、私はどうあれば幸せなの?と自分に問うてみると、私にとって自分の人生が最高に幸せ!と言える理想の条件は3つありました。

 

 ①健康で美しい容姿。

 ②最愛の彼との温かいパートナーシップ。

 ③お金に余裕のある豊かな暮らし。

 

 この順番でこの条件が私にとって最も大切です。これらがあれば、今現在の日常で揺らされる些細な出来事たちは、余裕をもって受け止められどうでもよくなるだろうと思えるのです。

 

 ということは、私がいますぐに取り組むべきは「①健康で美しい容姿」になることです。もちろんこのことは私にとって往年の課題であったこともあり、ひたすら向き合ってきたつもりでした。でもおそらくその方向が違っていたと思います。今までは、どうして健康じゃなくなってしまったのか、何がその原因なんだろうか、と、意識を過去側に向けていたと思います。でも、今の私が思うのは、もっともっと、今と未来側に意識を向けたいと感じます。それは、「今この瞬間どうしたらより健康か」を考えて日々生きることです。

 

 健康でこんなにも手こずるなんて、と、思ってみたりもしますが、いい悪いと考えず、これが私に与えられた何かしらの使命につながることと信じる気持ちがあり、これこそが、どうしても「やり遂げないと死んでも死にきれん」ことのひとつかもしれません。

 

 

 昨日は前の晩から体調が悪く、(明日は仕事休んで一日寝よう)と思ったまま、有言実行。居心地の悪い実家で、たまたま母と甥っ子のいない一日にあたり、良くも悪くも自己嫌悪の一日を送ることになりました。

 

 でもそこで発見したことも大きかったです。それは、やはり私は外側のせいにしていたということでした。母がいてもいなくても、誰かの何かがあってもなくても、全部自分のせい。自分でやっていた。外側のせいじゃない。自分で選んで自分がその結果を受け取っているだけだと思えました。

 

 ここで出てきたんです。「自分がホトホト嫌になった…」。

 

 久しぶりのネガティブは、実はいつも同じ内容です。何度同じ自分を見て来たんだろう。もう、イヤ。会いたくない。しかし今日のこのネガティブは、女性経営者を思い出したことで、単に今までの再来とは違うようにできるんじゃないかと思ったんです。つまりこれ、私が本当に変われるチャンスじゃないかって。

 

 絶対に変わりたいんです。こんな風に悩んでいる自分は全然いらない。残り何年か知らないけれど、残りの人生の1分もこのネガティブに割いていたくない。だから、今日のこのホトホト嫌になった感覚を忘れないでいよう。そして、ここを底辺に、龍のように、理想の自分に舞い上がっていこう。そう思います。

 

 そして夜には少し感覚が研ぎ澄まされてきました。今このブログを書いている時点ではこのネガティブから24時間経とうとしているので、だいぶ言葉がまとまってきていますが、昨夜のネガティブ真っただ中ではまだぼーっと浸っていたのです。

 次第に私は具体的に何が嫌なのかをキャッチすることができ、「健康でない」という物質的な結果ではなくて、もうちょっと手前の、「誰とのどんな出来事、現象にストレスを感じているのか」を見たんです。

 

 すると、私はものすごく”疲れている”ということを認識できました。人によってはそんなこと、簡単に感じられることかもしれませんが、どうやら私はなかなかそれが感じられない(感じちゃいけないという無意識がある)人のようです。「私は今すごく疲れているんだ」と思うだけで、ほっと安心に似たような気持ちにもなりました。認めてあげたということです。

 

 具体的に何に疲れたのかも理解できました。最近、自分の会社であった慣れない仕事。立場的な責任に押しつぶされるとまではいきませんが、責任をもってやりたい本音と、図らずしてやっている義務感、それらを一人で抱えるために前向きに思考しようと頭でしていた努力。さらには、私の理想の人生②の条件をクリアしようと行動したマッチングアプリ。そこでは不慣れな人たちと、色々なやり取りをすることが、今の私にはどうも負担になっていました。色んな方の色んなご質問が、知らないうちに私の心理的負担になっていたのです。ひいてはこうした願望実現を努力する行動自体において、同居の母の存在も重たくのしかかっていました。これも本音です。

 

 一日ひたすら休んだ夜に出てきた「疲れた」という本音は、ものすごくシンプルでした。毎日尊敬する経営者の言葉を聞いて、自分の言葉を聞いて、ネガティブや潜在意識と戦ってがんばろうとしていた自分は、がんばりすぎていたのかもしれない、というふうにも思えました。

 

 私はまたここでおもいもかけない行動に出ていました。長年の友人にそっとメールをしていたのです。前の週にメールをもらっていて、そっけない返事をし、そのままになっていた彼です。ちょうど私が健康をなくし始めた10代半ばから、私の心の支えになってくれている人で、この17年間いつも、私は自分の心が窮地に追い込まれたとき無意識に彼に連絡しています。今回もそうでした。

 

 すると彼は私より先に、私が疲れていることを察していました。私の「休みたくなってる」というたった一言で状況を理解してくれる彼に驚き、堰を切ったように涙がこぼれ、そんな自分に(あぁ、我慢してたんだ、つらかったんだな)と思うことができました。そのあと彼は電話をくれ、いつものように私の話を聞いてくれる中で、言葉にならない気持ちを電話越しに理解してくれました。それはなんだか心のもやが溶けていくようでした。

 昔に比べよく会うわけでもなく頻繁に連絡するわけでもないのに、これまでを改めて思い返し彼に何度もありがとうと言っていました。

 

 

 ここまでを振り返ってみると、「私はどういう人生が理想なのか」がごくハッキリ見えてきたような気がしています。いや、むしろ真実はただこれだけなのだろうと思います。すべての出来事はこれを知るためにあるのかもしれません。私はものすごく不器用ですが、頑張りたいです。

 

 そして、こんなふうに考えられる自分が幸せです、すでに。「嫌なことがなくなるわけじゃないんです」。嫌なことがあっても、その時にどう考えどう生きれば思い通りの人生になるのかがわかるんだということを、教えてくれている女性経営者や、周りの方に感謝です。

 

 今日このブログを書いていてもう一つ、「死んでも死に切れん」ことが浮かんできました。それは、母と仲良くなることです。