マニッシュさんのブログより | クリシュナのあめーばーぶろぐ

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文化全般が不安の隠蔽なんですよね。ハイデッガーの「存在と時間」が、この

構造分析をしております。最近再びみづからの経験の立場で、このこと(以外にも

無論含みはありますが)についてブログで書いてみたくて、書き綴っておりますが、

マニッシュさんが面白い記事を欠かれてたので、許可を得て転載します。

@関空。いまから上海経由でバリ島に戻ります。



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自分が広告物となったマリリン。
笑みを浮かべ、ポーズを取る。
それは、広告ではあるけれど、自分自身ではありません。
主張がいつしか自己宣伝にすり替り、次第に、自分が自分でなくなっていく。
役所勤めを長年やった人や、燃え尽き症候群の人に多い症例。
では、自分とは何でしょう。
笑みの裏にいる不安げな表情の人は何者でしょう。
和尚が「不安について」語っています。

「一般に信じられているように、欲望が不安を生みだすのではない―不安が欲望を生み出すのだ。
人は「不安」そのものだ。
先日、私はあなた方に言った。動物には不安がない、と。それは彼らが何かになる(become)必要がないからだ―彼らはある(are)。イヌはイヌであり、トラはトラであり、それで全く問題ない!トラはトラになろうとしていない。トラはある!トラはすでにある!いっさい何かになる必要はない。

動物の世界には不安というものがない。ブッダの世界にも不安というものがない。彼らは到着しており、なっているからだ。彼らはシッダ、存在(being)だ。もはや目標とするものはなく、動きはない。旅は完結した。彼らは<わが家>に到着している…。

この二つの間に人間がいる―彼は半分は動物、半分はブッダだ。まさにそこに不安がある。不安とはこの緊張だ。あなたの一部は動物に戻りたがっている。それはあなたをいつも引き戻そうとする。それは言う。「戻っておいで!あんなにすばらしかったじゃないか―どこへ行くつもりだい?」

もう一方の部分は未来へ希望を抱き続ける。何らかの間接的な形で、あなたはブッダになることが自分の天命であることを熟知している。種子はある!そして、種子はあなたに言ってやまない。「土を、正しい土壌を見つけ出せば、おまえはブッダになるだろう。戻ってはいけない!前に進め…」


この綱引きが「不安」だ。「不安」は理解されるべき最も重要な言葉のひとつだ。なぜなら、それは単なる言葉にとどまらないからだ。それは、まさに人が置かれている状況だ。これが人間のディレンマだ―生きるべきか、死ぬべきか?これであるべきか、あれであるべきか?どこへ行ったらいいのか?人は十字路で立ち止まっており、すべての可能性が開かれている。だが、一つの可能性を選んだら、ほかのすべての可能性を捨てなければならない―そこに恐れがある。間違った選択をしたかもしれない。右に行けば―誰にわかるだろう?―左に行く方が正しかったかもしれない…。

これが「不安」だ。どこへ行ったらいいのか?何をしたらいいのか?何をやるにしても、不安がなくなることはない。動物になってしまえば、ブッダの部分がそれに反逆しようとする。自分の動物の部分が喜ぶことをやってみれば、ブッダの部分があなたの中に罪悪感をつくりだす…。
ひとつの部分に従えば、もうひとつの部分が罪悪感を感じさせる。その逆もしかり。これが「不安」だ。この不安はまさに実存的なものだ。それに苦しむ者もいれば、苦しまない者もいるということはない―それはない。それは実存的だ。誰もがその中に生み落とされている。人類はその中に生れついている。人間は不安の中に生れついている。それが人間に与えられた課題だ。それは彼がとかねばならない問題、彼が越えなければならない問題だ。

さて、それを超越する方法は二つある。ひとつは世間的な方法で、それを「欲望」と呼んでもいい。欲望はこの不安を隠すやり方だ。あなたは狂ったように金を稼ぐことに奔走する。金もうけに夢中になり、実存的な不安のことはすっかり忘れてしまう。そうなれば真の問題について考える時間も、手がかりもなくなってしまう。あなたはすべてを脇におしやって、金、さらなる金の追求にのめり込む。そして金を得れば得るほど、さらに大きな欲望が起こってくる。この金や政治権力を求める欲望は、不安を隠すための覆いにほかならない…。

欲望は不安を避けるやり方だが、ただ避けることしかできない。避けることで、それを打ち壊すことはできない。欲望は人に小さな不安を与えるが、いいかな、それはごく小さな不安であって、実存的なものではない。もちろん、金を稼いでいる時も、あなたはいくつかの不安はあるだろう―取引のことや株式市場のこと、あれやこれやのこと、それから価格。多くの金を注ぎ込んだが、それでもうけることができるか、それとも損するか?こういった小さな不安がある。それはほんとうの不安とは比べものにならない。それはほんものを避けるためのトリックだ。

欲望は不安の隠蔽だ。それはトリックであり、策略だ。そして、瞑想とは、その覆いをはがすことだ…。

真の瞑想はテクニックではない。真の瞑想は単にくつろいで、静かに坐り、あるがままにものごとを起らせることだ。すべての不安が浮上して、表面化するのを許しなさい。
そして、それを見守り、見守り続ける。それを変えることは何もしない。

目撃が真の瞑想だ。

その目撃の中で、あなたの仏性はさらにもっと力強いものになる。目撃は仏性の滋養だ。そして、仏性が力強くなればなるほど、不安はいっそう少なくなってゆく。あなたの仏性が成就した日、すべての不安は去っている」