夏休みらしく社会科見学 ホロコースト展に出かけた | さゐ٩(๑❛ᴗ❛๑)۶のブログ

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命のビザで6,000人のユダヤ人を助けた、杉原千畝 すぎはらちうね
と、
アンネ・フランクについて
、その時代とともに紹介する展示会に、
子どものリクエストで出かけました。

勇気の証言ーホロコースト展
アンネ・フランクと杉原千畝の選択

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ホロコーストが、ナチス・ドイツのヒットラーの政策により、600万人ものユダヤ人が命を落としたことだとは、実はぼんやりとしか知りませんでした笑い泣き

貴重なヒトラーの文書や、収容所で使われたものなどが、無言で悲惨さを伝えていました。

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600万人の1人であるアンネ・フランクは、密告され、つかまるまで、2年間人目を忍んで暮らしていました。
学校、友だち、おしゃれ、美味しいもの、すべてを取り上げられて、両親から赤ちゃん扱いされるとぼやきながらも、最後まで賢く明るく、希望を忘れず、生き残った父親は、アンネの日記を読み、娘がこんなに成長していたのかと息を飲んだそうです。


そして、杉原千畝、ちうね という名前は、故郷である岐阜県八百津町の棚田を表しているという説と、本当は美濃市の出生で、千畝という地名があり、そこからとったという説がありました。

外交官であった千畝は、リトアニアの領事館にいた最後の1カ月に、日本をパイプとして第三国へと亡命し生き延びようとしていたユダヤ人たちに、通過ビザを請われていました。
政府に背きユダヤ人を助けるのか、従って見殺しにして立去るかの選択を迫られました。
自分の奥さんに助言を求めます。「あとで、私たちはどうなるか分かりませんけど、そうして上げて下さい」と言った素晴らしい奥さま。

当時、日本政府との通信手段は、崖の上のポニョで登場したモールス信号。また、本省は他の問題で忙しいため、そのタイムラグを逆手に取り、6,000人分のビザを独断で発行したのです。

食事もろくに取らず、寝ずにビザを書き続け、それでも間に合わなかった人に頭を下げ、電車に乗ったのです。千畝に感謝して慕う人々が電車を追って名を呼び、お礼を言っていたそうです。

自治三決 という、杉原千畝が、いつも口にしていた言葉です。

人のお世話にならぬよう

人のお世話をするよう

そして報いを求めぬよう

実は千畝の発行したビザだけでは、亡命は難しかったのです。
千畝はこのため外交官の職を失いますが、すごかったのは、千畝の人柄を知る後輩の根井三郎が、本来漁業関係者にしか出せない日本行きの乗船許可証を発給して難民の救済にあたった。また、ユダヤ人を受け入れた敦賀の人々など、救いの手を差し伸べる人々がリレーのように繋いでいったことでした。

外交官の暮らしから一変し、幼い三男を失うなど、辛い中で何一つ不満ももらさず、
耐えて家族を養っていた、と言うパネルの前で、なんでみんな泣いてないのだろう、
と周りを見てガマンしていましたえーん

私のしたことは、歴史が判断するだろう、と言ったとおり、世界から正義のヒーローと高い評価を受けましたが、日本で名誉を回復したのは、没後からずっと経った2000年になってからでしたプンプンうずまき