今まで体験した事のない不整脈と血圧低下は
ICDの設定を変えたことで解決したかと思われたのですが、実はそうではなく・・・
2020年の年の瀬に、救急搬送からの緊急入院に至りました。

その記録を、記憶を辿って書き残しておきたいと思います。
今回に至ってはどこにもグルメネタはありません笑い泣き笑い泣き笑い泣き
写真もなければ、ただただ長文です。
ご興味のある方と自分のために書き残します。


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最終の飛行機に乗り、伊勢から帰宅したのが22時
ダイニングテーブルを囲んで、娘とお喋り
お土産の赤福食べたり、写真を見せたり

取り急ぎお風呂を沸かしてサッと入ったり
(ここでお風呂に入れていて良かった)

そして23時半を過ぎたころかな
椅子に座ってスマホ見ていたら、
急にくらっとして
「あ、これまずいって思った矢先に、意識が遠のき、ドンッと強い衝撃と共に、記憶にはないが椅子から落ちたようで
(ベンチタイプの椅子なのでそのまま後ろに)

気がつくと
左腕の不随意運動
左肩と肘に打撲の痛み
娘が心配そうに覗き込んでいる
「ママ、ママ大丈夫?」と。

「今ママどうなっていた?何か変だったよね?」
と娘に確認しつつ、

これが1回目のICD作動で、作動したのはなんとなく分かったけれど、今まで誤作動しか体験した事がなく様子見れると思ってしまった。
また、意識消失を伴っていたため、作動の衝撃があまり強く感じられなかった。

「今日はとりあえずもう寝て、明日病院行ってくるね」とまだ起きている娘に言い残してお布団に入って。

ところがまた、娘に「ねぇ大丈夫?」と声をかけられ、目が覚めた時は、自分でも何かが変だと感じたの。

実は後でICDチェックをして分かったが、この時、2回目のICD作動があり、私はすっかり意識をなくしていたから、作動した事さえ気付いていなかった。

さすがにいつもと違うと感じて、かかりつけの大学病院に電話。
「すぐ救急車呼んで来てください」との指示で
119番に自分で電話し、住所と症状を伝えた。


取り敢えず、旅の荷物がリュックに入ったままだったので、そこに定期薬とICD手帳だけ、床這いながら詰め込んで、


娘もすぐに支度を始めていたが、
「帰りも大変だろうから、ママ一人で行くよ」と言うと、「今そんな心配いらないから」と娘。

娘はこの間に、いつも私が泊まりの時は浄水をボトルに入れているの知っていて、1リットルのボトル2本に浄水汲んでくれていたと後で知った。なかなか冷静である。
あと、スマホの充電器もお願いと頼んで。



床を這うように玄関まで移動して、壁にもたれながら救急車の到着を待っていた。
頭は至って冷静。

程なくしてサイレンの音が近づき、娘に救急隊の方が分かるように外に出てもらった。


担架も用意されていたけれど、歩けますと
支えられながら救急車まで移動
救急車のドアの前で担架に横になり、
車内へと運ばれる。

救急車は人生3度目
1度目は15年前の心筋梗塞で、すでに意識が無かったので記憶にない

2度目は7年くらい前だったかな
初めてのICD作動と強い胸痛で。結局はpafによるICD誤作動だったけれど、しばらく入院加療が必要だった
この事がのちに大学病院を退職するきっかけになった。


車内ではモニター装着してバイタル測定と同時に
経過や既往歴やかかりつけなど聞かれる
事前に病院に電話をしてあると伝えたので
救急隊の方は病院に連絡を入れ受け入れ可能かを確認電話する。

私は大学病院で救急要請の電話を受ける側だった。事前に連絡があると、受け入れもスムーズ。

受け入れ確認が取れ、いざ出発
深夜の住宅街をサイレンが鳴り響く。
家の前ではサイレンを鳴らさないような、配慮があったように感じた。

救急車内は固定された担架と並んで
反対側はベンチのようになっていて
娘が座っている。
スマホでバイトに行っている息子に連絡を入れていたようだ。


雪道の救急車は揺れる
ガタガタガタ
かなり揺れる
脳梗塞とかなら大変だろうと思う。

車に酔いを感じ
今、どの辺を走っているのかなぁとぼんやり考えていると、再び意識が遠くなっていく
その瞬間、ドンッと3回目のICD作動‼️
かなりの衝撃、痛みと恐怖で涙が出た。
娘が遠くから手を伸ばして、手を握り、
救急隊の方が、バイタル測りながら「もう少しだからね」「頑張ってね」と涙を拭いてくれた。

よく「救急車で運ばれた」と受動的な表現をする方がいるが、要請したのは自分たちである。
「救急車で運んで貰った」の方が相応しいように思う。

救急隊の方には感謝しかない。
顔も名前も分からないが、不安を和らげるよう、常に優しい対応だった。


いつもの通い慣れた大学病院
深夜であるが、防災センターの方が予め鍵を開けてくれており正面玄関から搬入。

エレベーターに乗り
病棟に到着したところで、娘はそこまで
ディルームで待機


午前0時過ぎ
凖夜帯の深夜帯の間のため、ナースも沢山いて、男性ナースもいるため、誰が医師で誰がナースかは分からないが、取り敢えず医療スタッフ総動員で対応してくださった。

手早くモニターを装着してバイタルを取り
遠くでは救急隊との申し送りが聞こえる。


ルートを確保するのも困難な、
私の細くて脆弱な血管、何度目かで確保できて、補液がつながった。
動脈採血もして、心電図、ICDチェック次々検査が行われた。

私はぼーっとする頭の中で、潜在意識の中にある15年前の意識がなかった頃の感覚に立ち戻る。
自分がベッドやストレッチャーで寝ている周りを、慌ただしく医療スタッフが動き回る足音、カートを押す音、モニター音。自分が世界から遮断されて、水の膜の中にいるような感覚。
きっと亡くなる時もこんな感じなのかなぁと、静かに考えていた。


内頸静脈からCVルート確保するとの事で、準備が進む。消毒をしてドレープを掛けると当然、顔が覆われる。息苦しさと不安を感じながら、とにかく呼吸を整えた。
ロカールと言って、一応痛み止めの注射をするけれど、痛みがないわけではなく、太い管が押されて入っていく感じが怖い。やっと入ったと思ったらまだシースで、、、医師の「ん?」とか「あっ」とか漏れ出た声にいちいち心が反応してしまう。改めて顔周りの処置は怖い‼️笑


ポータブルでレントゲン撮影もしてもらい、CVルートが正しく入っているのを確認した。

その後、心エコー検査をして
娘に先生から説明が行き、娘が帰宅の途についたのは3時半を過ぎていた。


挿入したCVの痛みで顔を動かすこともできず、
15年間、手術の後にも頑なに飲んでいなかった痛み止めを内服したが、効果はなく
痛みやら何やらで、結局一睡もできないまま朝を迎えた。



今回本当に申し訳なかったのが、

伊勢から帰ったその日だったこと。
当然、コロナの自覚症状や該当項目はない。
常日頃、身体の内側から感染予防対策をしていた。それでも1週間以内に道外から戻った場合は、感染疑いとして、covidの陰性が判明するまで、ガウンテクニックなどの感染対策をしなくてはいけない。

搬入時は普通に対応していた医療者が、疑いありとなった瞬間から部屋のドアが閉められ、ガウンテクニックをして入ってくる。ただでさえ深夜の搬入で申し訳ないのに、多大な医療負担をかけてしまい、胸が苦しかった。
そして万が一、陽性だったらと思うと、とても不安だった。

朝を迎え、午前中にPCR検査をして(私は今までインフルエンザにも罹った事がないので、鼻に綿棒を差し込まれるのは初めてだ)、結果がでるまでの数時間がとても長く感じた。

結果は陰性

今回のことで、また患者さんの気持ちが分かった気がする。



そして後の検査で分かったことは、
すでに伊勢に行く前から致死的不整脈は出ていたこと。
出発前に空港ラウンジで過ごした間にも、目眩がして膝を突いていた。後のICDチェックで、実はこの時も致死的不整脈が出ていて自然停止していたことが分かった。
そのあと飛行機に乗ってよく無事だったと驚く。

飛行機に乗ったり、
寒い中荷物を持って長時間歩いたり
いつ致死的不整脈が出て、意識を失い、ICDが作動していても不思議ではない状態だった。

だけれども、今回の伊勢は本当に呼ばれていた感じがして、どの移動も全て不思議なほどスムーズだった。守られていたとしか考えられない。

飛行機の中で不整脈が出たら最悪だったろうし、伊勢で倒れていても私の病状が複雑なため大変だったと思う。まして地下鉄降りて自宅まで帰る雪道で意識を失っていたら、そこで最期だった可能性も充分ある。

リスクの高い場所で不整脈は出ず、
自宅の、それも娘の目の前で倒れたあたり、やっぱり私は大いなるものに守られていると思わずにはいられない。


今、心の中にあるのは感謝の気持ちだけ。

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とにかく命は助かりましたおねがい
入院生活についてはまた次に!


ふぅ・・・
こんな長い文章をいったいどのくらいの方が読んでくれているのだろう?
最後まで読んでくださったかた、ありがとうございますラブ

お疲れ様でしたキラキラキラキラキラキラ