さて、妄想はとどまることを知らないが、やがて、ちょっとだけ『妄想してる自分』と『瞑想している自分』が分かれることがある。

 

こうなると徐々にだが妄想は薄れ、やがては瞑想だけをしている状態になることが出来る。

 

といっても、数十時間座って、それを感じることが出来たのはほんの数回のみ。

人によってはもっと多いかもしれないし少ないかも知れない。

 

それは次に教えられるヴィッパーサナ瞑想の『観察』と『平静』という根幹を知れば気にするまでもないことだとわかるが、いかんせんこの競争社会、ひたすら誰かと背比べをしてきたし、することを望まれてきたし、それがあたりまえだったこの垢だらけの脳では簡単に比べない、周りを気にしないと言うのは難しい。そして、そのための沈黙。

 

ここで、あれ?今までやってた瞑想はヴィッパーサナじゃないの?と思う方もいるだろう。

 

そうなのです。ここまでやっていた瞑想は『アーナパーナ』という集中力を高める呼吸を使った瞑想でヴィッパーサナ瞑想の準備運動のようなものだったのです。

 

このヴィッパーサナ瞑想は確か4日目に教えてもらいます。

ホールの出入り口には1日の時間割が貼ってあるのですが、その日はヴィッパーサナ用の時間割になっていて、すこしだけ厳かな空気を感じました。

 

とても簡単にいうと、

・動いてはいけない

・頭の上からつま先まで皮膚で起こっていることを感じる

・痛みや痺れに執着しない

・目はつぶる

常に平静な心であり続け、観察し続ける。

 

今までは胡坐に疲れたら片足立てをしたり、もぞもぞと動いていたのですが、ここにきて1時間動かないでくださいと言われた時はさすがに絶望を感じました。

 

もちろん動いたからと言ってもなにも起こらないのですが、それが瞑想のやり方であればまじめに取り組みたくなるもので、しかし、足は痛むし、背中はきしむし、なんか腰の痛くなったことのない場所が痛いし動かないなんていうのは無理だろう…でも…。

 

そんな逡巡などしても時間は流れいざ瞑想をはじめます。

 

頭の上は髪の毛があるのでなんとなくむずむずするような。

そこから下がり、頭皮も同様に。

おでこ、まぶた、鼻、唇、両耳、それぞれをそれぞれがどのような感覚を感じているか、暑いとか寒いとか風をうけているとか、かゆい、痛い、言葉にならない何かしらかの感覚それを自分で気づくまでその場所にとどまります。

自分の場合は顔はほとんど『痒い』と感じていたので、顔は洗っていましたが、顔ダニだきっと沢山いるんだろうなと考えたりもしていました。

 

そして、意識を右肩に下ろしていき、右腕、右ひじ、右手首、右手、今度は左肩から同様にすすめていく。

左指まで行ったら今度は首、胸、おなかと降りていき、今度は後ろにまわって、背中を肩甲骨や背骨、腰まわりなどと進めていきます。

両の足も腕と同様に進めていき、指先まで行ったところで、頭頂に戻りまた同じ手順で進めていく。

 

これをひたすら1時間。

 

長い!!!!

 

呼吸を一分間気にしているのとは訳が違います。

圧倒的な集中力を要します。

 

15分も座っていると足がしびれ、背中が痛み、歯を食いしばったりつねったりしていくうちに動きが大きくなり、やがては座り方を崩し、痛みを気にしながら座る羽目になります。

 

これが少しうまくいくと痛みが気にならなくなります。

痛みにも波があり、その波が平坦なときは痛くないのです。

 

痛みにだけとらわれていると、意識が痛みを作り続けます。それはその微細な波を見過ごし、『痛み』だけを常に意識していしまうのです。

でも、本当は痛くない時があり、その時間も『痛み』として認識しないことで徐々に長くなっていくのです。

ただ、こうなるためには結構な山を越えないとなかなか到達できませんでしたが。

 

さて、ここからさらにこの観察の作業が多くなっていきます。

 

その辺は一気に行きたいので次回に。