さて、今日でシルバーウィークも終了。
明日からはまた仕事漬けの日々が始まる。
この休み、ちょっとした縁からヨガとパーマカルチャーについて学べる合宿に参加することになった。
二泊三日のその合宿は靄がかかったこれからの生き方に少しだけ光明が見えるような意義があったように感じる。
ヨガはいいとして、パーマカルチャーとは何だ?と首をかしげる人も多いだろう。
端的に言えば、
『永続可能な農業(permanent + agriculture)』だ。
では永続可能な農業とはなんだ?となると、
答えは
『森』だということになる。
なぜならば森は生態系の行き着いた先。つまり、世代交代が行われ永続的に存続可能な環境であるからである。
こういう説明になるとわかりにくいかもしれないが、
噛み砕けば、
自然本来の形を生かした上での農業ということで理解していれば間違いはないだろう。
NPO法人でもあるパーマカルチャーセンターは古民家を改修しほぼそのままの形で使用している。
自然素材、あるものを使うという考えの下にアルミサッシははずし、古くなった木製の建具を調整して使い、腐った床も張替え、土台も入れ替え、建てつけは決していいとはいえないが素朴な風合いのある住居になっていた。
そこで寝泊りをし、日に多い日で三回ヨガをして、講義を受け、談笑する。そんな合宿だった。
総括すれば、現在の自分の生活は余剰に満ちていて、なおかつ一方通行であるという事実に気がついた。
パーマカルチャーの原則には『循環』という考え方がある。
それは森の営みを想像すれば容易に意味がわかるだろう。
草木が育ち、果実が実り、動物が食べ、種を落とし、また草木が栄える。
何世代も繰り返されている循環。
当然一方通行、投げっぱなしでもかまわない。
が、それはどこか味気なく、無責任なようにも感じる。
センターのトイレは汲み取り式。
汲み取ったものを肥料に使い、畑に使う。
そこには循環があるし、あるべきというか、健全な姿であるような気もする。
もちろん都会でやるには、近隣への匂いや、その処分をする畑がないなどの問題がある。
水だって公的機関に依存しているし、エネルギーだって何一つ負担を減らそうとしていない。
減らすことがいいことだとは思わないけれど、過剰なエネルギーを使っている自覚はある。
そこでコンポストをつくったり、小さな循環になるようにプランター栽培を始めてみたり、ひとそれぞれこれからの自分の生活のデザインをしていくことが楽しそうだなと思うようになった。
なにより土に触れているととても落ち着いた。
講義の中でパーマカルチャーを実践していくことは百姓+一になることだという話があった。
百姓は農作物を育て、家を作り、堆肥をつくり、食料を分け…といった具合に何でもできるといいう意味がある。
そこに自分のやりたいこと、やっていることの一を足してあげる。
そうすることでワークシェアが生じる。
何かをしてあげる代わりに、お米をあげるとか、車を貸してあげるとか。
センターのある藤野ではそういったコミュニティーができていて、終電でバスもなくなったときに、SNSかなにかで『バスがなくなったから誰か家まで送ってくれませんか?』と呼びかけると手を上げる人がいたりするという。
対価として費用が生じるのではなく、その人の持っている何かで支払う。
そうは言っても自分は何ができるのだろうかというのが解決すべき当面の問題になりそうだ。
オークションによる洋服のリサイクル。
でも今後はもっと気をつけて洋服を買おうと思うし、
食べるものにももっともっと気をつけないとなと思った。
できれば自給自足が一番安心だけれど、
そうも言っていられないからこそ、いろいろ調べて、自分で選択していかないといけないのかなと思うようになった。
パタゴニアの企業理念はとても魅力的だけれど、一方でグリーンピースに援助していたりという面もある。
ユニクロは安くてそこそこ着れるが、劣悪な環境で働かせていたりもする(改善はしていっているらしい)。
だからこそ、自分が納得して購入できるものというのは存外少ないのかもしれない。
どこかで眼を瞑り、見てみない振りをする。
お惣菜だって、何が入っているかよりは値段がいくらかが大きなウェイトだったりもする。
いちいち聞いてられないし調べてもいられない。それはそういうことよりも自分が重視していることがあるからだろう。
有機栽培という言葉ひとつにしても一見良い様な感じもするが、とあるマンガによれば家畜のえさに農薬が使われていて意味がないという見方もあるし、さらに、農薬を使わないことで、野菜は外敵に備えるために毒性をましたりするという論もあったりする。
講義でも少し出てきたが、『ネオニコチノイド』という農薬は人体に影響があるという。
が、最近読んだ『黙示』によれば農薬なのだから適量を越せば当然人体には影響がある。
しかし、使用量を守れば害はない。
使う人間次第ということだ。
それを過剰に反応し、農薬は悪だとみなす考え方はあまり好きではない。
やはり農薬を使い安全に定量を供給するということは必要だと思う。
ただ、自分で作る場合、安定した供給を目的としない場合は使わなくてもいいのかなとも思う。
それから、土。
コンポストを作るには、
糠、おから、そして放線菌が必要になる。
これだって、糠、おからは多少の費用が必要だけれど、放線菌なら落ち葉のあるところで見つけることができそうだ。
まぁ、手間暇を考えるとそれが省エネにはならないし、失敗することもあるだろう。
そういう土に対しても何を選択してその土をよしとするかもその人なりのデザインだといえるだろう。
パーマカルチャーの定義としては、農業が根幹にあるが、そうでなくてもいいのではないかと思う。
自分なりに伝えて続けていけるような何かがあればそれはそれでパーマカルチャーといえると思う。
自分なりにこれからの生活をどうデザインしていくのかそれは自分で決めるしかない。
今回の二泊三日でまったくのストレスのない状態を経験すると、今までの日常で抱えていたストレスというものが計り知れないなと思うことができた。
気持ちがいいから行動的になれる積極的になれる。そうすると、どんどん活気が出てくる。
瞬間瞬間が楽しいということになる。
早速何かを作ろうと思うが何がいいだろう?
これからの季節で、簡単で、食べられるもの。
寒くなるこれからはパクチーに不適らしいのでハウスをつくるのも面白いかもしれない。
一気にはみ出すことはできないから少しずつはみ出していこう。
5年後自分はどこに住んでいるのだろうか。どんな家に住んでいるのだろうか。
時は東京オリンピックそれまでに、ひとつの答えを出せるよう行動していこうと思う。
明日からはまた仕事漬けの日々が始まる。
この休み、ちょっとした縁からヨガとパーマカルチャーについて学べる合宿に参加することになった。
二泊三日のその合宿は靄がかかったこれからの生き方に少しだけ光明が見えるような意義があったように感じる。
ヨガはいいとして、パーマカルチャーとは何だ?と首をかしげる人も多いだろう。
端的に言えば、
『永続可能な農業(permanent + agriculture)』だ。
では永続可能な農業とはなんだ?となると、
答えは
『森』だということになる。
なぜならば森は生態系の行き着いた先。つまり、世代交代が行われ永続的に存続可能な環境であるからである。
こういう説明になるとわかりにくいかもしれないが、
噛み砕けば、
自然本来の形を生かした上での農業ということで理解していれば間違いはないだろう。
NPO法人でもあるパーマカルチャーセンターは古民家を改修しほぼそのままの形で使用している。
自然素材、あるものを使うという考えの下にアルミサッシははずし、古くなった木製の建具を調整して使い、腐った床も張替え、土台も入れ替え、建てつけは決していいとはいえないが素朴な風合いのある住居になっていた。
そこで寝泊りをし、日に多い日で三回ヨガをして、講義を受け、談笑する。そんな合宿だった。
総括すれば、現在の自分の生活は余剰に満ちていて、なおかつ一方通行であるという事実に気がついた。
パーマカルチャーの原則には『循環』という考え方がある。
それは森の営みを想像すれば容易に意味がわかるだろう。
草木が育ち、果実が実り、動物が食べ、種を落とし、また草木が栄える。
何世代も繰り返されている循環。
当然一方通行、投げっぱなしでもかまわない。
が、それはどこか味気なく、無責任なようにも感じる。
センターのトイレは汲み取り式。
汲み取ったものを肥料に使い、畑に使う。
そこには循環があるし、あるべきというか、健全な姿であるような気もする。
もちろん都会でやるには、近隣への匂いや、その処分をする畑がないなどの問題がある。
水だって公的機関に依存しているし、エネルギーだって何一つ負担を減らそうとしていない。
減らすことがいいことだとは思わないけれど、過剰なエネルギーを使っている自覚はある。
そこでコンポストをつくったり、小さな循環になるようにプランター栽培を始めてみたり、ひとそれぞれこれからの自分の生活のデザインをしていくことが楽しそうだなと思うようになった。
講義の中でパーマカルチャーを実践していくことは百姓+一になることだという話があった。
百姓は農作物を育て、家を作り、堆肥をつくり、食料を分け…といった具合に何でもできるといいう意味がある。
そこに自分のやりたいこと、やっていることの一を足してあげる。
そうすることでワークシェアが生じる。
何かをしてあげる代わりに、お米をあげるとか、車を貸してあげるとか。
センターのある藤野ではそういったコミュニティーができていて、終電でバスもなくなったときに、SNSかなにかで『バスがなくなったから誰か家まで送ってくれませんか?』と呼びかけると手を上げる人がいたりするという。
対価として費用が生じるのではなく、その人の持っている何かで支払う。
そうは言っても自分は何ができるのだろうかというのが解決すべき当面の問題になりそうだ。
オークションによる洋服のリサイクル。
でも今後はもっと気をつけて洋服を買おうと思うし、
食べるものにももっともっと気をつけないとなと思った。
できれば自給自足が一番安心だけれど、
そうも言っていられないからこそ、いろいろ調べて、自分で選択していかないといけないのかなと思うようになった。
パタゴニアの企業理念はとても魅力的だけれど、一方でグリーンピースに援助していたりという面もある。
ユニクロは安くてそこそこ着れるが、劣悪な環境で働かせていたりもする(改善はしていっているらしい)。
だからこそ、自分が納得して購入できるものというのは存外少ないのかもしれない。
どこかで眼を瞑り、見てみない振りをする。
お惣菜だって、何が入っているかよりは値段がいくらかが大きなウェイトだったりもする。
いちいち聞いてられないし調べてもいられない。それはそういうことよりも自分が重視していることがあるからだろう。
有機栽培という言葉ひとつにしても一見良い様な感じもするが、とあるマンガによれば家畜のえさに農薬が使われていて意味がないという見方もあるし、さらに、農薬を使わないことで、野菜は外敵に備えるために毒性をましたりするという論もあったりする。
講義でも少し出てきたが、『ネオニコチノイド』という農薬は人体に影響があるという。
が、最近読んだ『黙示』によれば農薬なのだから適量を越せば当然人体には影響がある。
しかし、使用量を守れば害はない。
使う人間次第ということだ。
それを過剰に反応し、農薬は悪だとみなす考え方はあまり好きではない。
やはり農薬を使い安全に定量を供給するということは必要だと思う。
ただ、自分で作る場合、安定した供給を目的としない場合は使わなくてもいいのかなとも思う。
それから、土。
コンポストを作るには、
糠、おから、そして放線菌が必要になる。
これだって、糠、おからは多少の費用が必要だけれど、放線菌なら落ち葉のあるところで見つけることができそうだ。
まぁ、手間暇を考えるとそれが省エネにはならないし、失敗することもあるだろう。
そういう土に対しても何を選択してその土をよしとするかもその人なりのデザインだといえるだろう。
パーマカルチャーの定義としては、農業が根幹にあるが、そうでなくてもいいのではないかと思う。
自分なりに伝えて続けていけるような何かがあればそれはそれでパーマカルチャーといえると思う。
自分なりにこれからの生活をどうデザインしていくのかそれは自分で決めるしかない。
今回の二泊三日でまったくのストレスのない状態を経験すると、今までの日常で抱えていたストレスというものが計り知れないなと思うことができた。
気持ちがいいから行動的になれる積極的になれる。そうすると、どんどん活気が出てくる。
瞬間瞬間が楽しいということになる。
早速何かを作ろうと思うが何がいいだろう?
これからの季節で、簡単で、食べられるもの。
寒くなるこれからはパクチーに不適らしいのでハウスをつくるのも面白いかもしれない。
一気にはみ出すことはできないから少しずつはみ出していこう。
5年後自分はどこに住んでいるのだろうか。どんな家に住んでいるのだろうか。
時は東京オリンピックそれまでに、ひとつの答えを出せるよう行動していこうと思う。