岡本太郎が言わずとも知れた爆弾であるならば、草間彌生はこの本でも書かれている言葉を使えば、無私なのかもしれない。

私が好きだった草間彌生の作品はもうない。

それらは、ポップで、毒であり、芸術作品としてのどうのこうのではなかったからだ。

増殖と背景に消える個性、増殖する男根に埋れて、恐れを降伏しようとする試み。

ただ、作品を見ただけで、嫌悪と鳥肌がつきまとっていた男根で埋め尽くされたボートを改めて観た時、以前感じた狂気とは全く違うものを感じた。

それは、「もののあはれ」である。

恐怖を克服する手段として、恐怖そのものに埋もれる行為は、安らぎではなく、更なる苦痛なのではないだろうか。

だが、そうする事しかできない。
そうする事でしか克服し得ない恐怖とぴったりと寄り添う事にしか癒しがない世界。

なんとも、切なくて紙面上の写真から目が離せなくなった。

時にはそこが海となり、時にはそこが草原になる。色は鮮やかに、そして、無彩色に。その間も横たわる草間彌生は身じろぎ一つしない。

人間にとって恐怖の克服は人生の課題の一つであるだろう。

誰もが、恐怖に対して必ず選択している。
向き合うか、顔を背けるか、誤魔化すか、どれをとろうがそこにはもののあはれがあるのではないか。

ちょうど今、ルイヴィトンとの企画でショーウィンドーが草間彌生一色だ。

けれど、悲しいかな、そこには無私は
ない。
増殖もない。

私が今まで感じていた、奇抜さがあるだけだ。

増殖し、景色になり、自己が消滅し、世間に受け入れられた先は、ポイントに使われるアクセントになってしまい、その商品を持つ人間の個を際立たせることになってしまった。

けれど、それは、恐らく裏返りなのではないだろうか?

消滅が起こり、その現象は消えるというよりも、内側へ吸い込まれている。
内へ内へと入り込んで行く先に、また外が生まれる。
その外から観察される自身は決して景色には溶け込まず、存在だけで異端である。

だからこそ、そこからまた始める必要があるのかもしれない。

それは、下着からかもしれないし、カバンからかもしれないし、タオルからかもしれない。


草間彌生の作品は何度か生で観たが、また観たい。今観たい。






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