東京、神奈川と少しの埼玉、群馬しか暮らした事ない私にしてみれば、東京にある哀歌を聞く事はない。

それはつまり、哀歌は日常でそれを哀歌として聴く事がないからだ。

だからこの小説には発見はあっても共感はない。
もちろん、時代背景が戦後から少し時間が経ったものだからだということもあるだろう。

けれど、地方から上京してきた人には時代を経てもなお色褪せない共感できる事があるだろう。

だから、この小説を読むとまるでその時代と現代とを俯瞰しているような感覚に囚われる。

ドラマというには安っぽすぎるけれど、そこには確かに存在していたし、今もなお存在しているであろう人々の息遣いを感じる事ができる。

それは通勤ラッシュ時の電車内の息苦しさに似ている。

こちらの脚に体重をかければ、あちら側のバランスが崩れてしまうし、かといってこのままでは脚が攣ってしまうし、ちょっとしたブレーキで倒れこんでしまう可能性がある。それに、このままじゃ、目の前の髪の毛が顔にあたってこそばゆい。

そんな息苦しさの中、朝の数十分を同じ空間を共有する人々の個々の他人に話すまでもない日常を思い起こさせる小説。

日常とか隣にいる人の事を考えさせる小説ならいくらでもあるが、この小説からは一種の拒絶を感じる。

お前は東京もんだから、と突き放され、それでも、読もうとする私を今度は突き飛ばす、その結果が、俯瞰になる。

東京は地方からやってきた人々で構成されている。東京出身者というのは思いの外少ない。現実で疎外感を感じる事はなくとも、実家が東京ではないという部分に多少なりとも憧れを感じる事もある。

けれど、首都東京はひたすらに人を受け入れ、人を吐き出す。
街は人が作るが、東京は都市が人を作っている気がする。

それはただの幻想でしかないのだが、それでも、そう思えてしまう環境がある。その中でもがくでもなく、生活して行く中に私が気にも留めない物語が産まれる。

それはなぞる事ができて、俯瞰する事ができたとしても体験する事は叶わない。

つまり、私にとっての東京哀歌とは物語が奏でる音楽ではなく、物語を読んだ私の心を吹き抜けて行く風の音なのだ。









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東京哀歌/西村 眞

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