なんと濃厚で味わい深い物語なのだろう。

1番始めの短編、タイトルにもなっている「隣の女」を読んだ日は他のに手を出せないほど、気持ちの器が溢れんばかりになった。

けれど、この充足感をなんと言えば良いのか未だ思い当たらない。

まとめてしまえば、
ちょっと貧乏な夫婦がいて、その妻が浮気をする話だ。

なーんだ。と見切るには伝えられない事が多すぎる。

この話しで何が描かれているのか、
夫婦の関係?浮気について?隣の女という題だけあって…、と挙げようと思える事は多過ぎる。

解釈はそれらから生まれてくるが、充足感は違うらしい。

リアルだからだろうか?
彼女の一挙手一投足から目が離せず、凝視している自分がいる。
けれど、彼女の心理や言葉や行動が興味深いのでもなんでもない。

その何でもない部分を見つめ過ぎて、いつのまにか同化してしまい、二倍の人生を送っているのかもしれない。

けれど、ここで重要なのは同化ではなく、なんでもない事をなんでもないようにかいて、心を鷲掴みにする向田邦子の技量だろう。

小手先が一切感じられない、でも、物凄い何かを感じることもない。

去年あたりに読んだ小林秀雄はまるで日本刀の切れ味だった。
ならば、彼女を例えるなら何だろうか?
これは意外にも直ぐに思い浮かんだ。
「風呂敷」だ。

カバンにもなれば、切って包帯がわりやら布巾がわりにもなる、テーブルクロスのような使い方だって出来てしまう。
使う人次第で如何様にも可能性が広がって行く。

…いや、もっと根源的なもの、火ではないだろうか。

暖を取るために使うストーブの火、炊いたり煮たり焼いたりと料理に使う火、けれど、うっかりタバコの消し忘れをしてしまえば人の人生を簡単に狂わせる。

使い方次第で人を救い、人を殺す。

ここでは、その火は言葉に還元される。

彼女は物語を織らない。出来上がった時の模様が美しいのではなく、ひたすら迷い決断し、折れて枯れて諦めながらも消えない人間の生命力を、灯火を息をふーっと強弱つけて、吹きながら読者に魅せるのだ。

蝋燭の炎のゆらめきに時間を忘れるように、そのひと時に没頭している。

それを無駄と割り切るならば一生贅沢は出来ないだろう。

何故なら、時間とは最も価値のあるものであり、贅沢とは有用でないもの、即ち、無駄だからだ。


と、ここまで書いて見て、
なんでもない物語を読んだあの読後感は充足感ではなかったらしいと気づく。

それは、本の世界から切り離された瞬間に受け取ってしまったあちら側の炎。その所在に戸惑い、己の生命に燃え移ったその力に温められながらも、秘めた狂暴性を恐れていたのかもしれない。

そう考えると、読み終えた車内で長くも長い長い溜息を吐いた理由も付くような気がする。






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