夜のミッキーマウス。

それだけでどれ程の想像を刺激される事か。
不思議な事にここでは想像だろうが、妄想だろうが精密な言葉の意味は不必要だ。
寧ろ、不可能と言うべきかもしれない。

その言葉から脳が創り出した何かしらかは、嫌に鮮明に、目の前をうろつく。その瞳は見つめあうほど生気を増すが、その右手の手袋は白いのか黒いのか赤いのかわからない。

そうして、出来上がりつつある、脳内の何かしらかは基本的に淘汰される運命にある。

そこに詩の他人の言葉に対する、暴力を感じる。
それはただの暴力じゃない。
有無も言わさぬ、峻烈な暴力。

読んでしまったが最後、自分の想像で詩には追いつけない。
追いつけそうだし、追いつけるものもある。
けれど、追いつけないものには徹底的に途方に暮れる。

だが、万が一訪れる追い付く瞬間に自身の想像力の身の丈を超える事に気づくだろう。

噛み続けた金属の塊が、次の一噛みで南国の果実に変わるような瞬間。

そこでは、もはや言葉は不要。
詩でしか表現できないものがある。
詩でしか到達できない場所がある。

だから、詩を読むとは暴力に耐える事だ。

だから、私は詩はあまり好きでない。




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