横尾氏の絵には今一つピンと来るものがないけれど、この人の書く素朴な文章にはとても惹かれる。
彼のみたインドはいかなるものか?知りたくなって読んでみた。
総括してしまうと、
インドと言う国については誰の感想を聞いたところで、『同じ』である。
と気付いた事が最大の成果だと言える。
インドは汚くて、乞食がいっぱいいて、乞食でない人も乞食みたいに汚くて、食事で腹を壊し、
徹底したカースト制が根付き、色とりどりのサリーとはっきりとした目鼻立ちの女性に目移りし、
バイタクの料金交渉で声を荒げ、自分を見つめ、ガンジスを眺め、遺跡では悠久の時の流れを感じ、
荒涼とした大地、花咲き誇る眼前の景色に理想郷を重ねる・・・・・・・。
こういった具合に羅列していけば、していくほど、インドに近づいているのかと言えば、
そうでもないような気がする。
いつも同じ距離感でそこにある。それがインドではないだろうか。
だからこそ、いつも驚きがある。
例えば、最寄りの駅はいつもそこにある。
それは間違いない。
今年の3/11以降の駅は人であふれていた。
人数規制を行い、駅の外まで人の列が長く延びていた。
その場所は確かに最寄りの駅だけれど、
見えてくる光景からそれが最寄りの駅のイメージから遠くかけ離れている。
だからと言って、そこが最寄りの駅じゃないとは思わない。
いつもと同じ場所に同じようにある。けれど、人が、つまりは変化が多い。
インドでは全てがあふれているような気がする。
富も貧困も死も生も、人も、自然も、建物の、車も。
膨大な量が生成するエネルギーがそこにあるだけ。だけ。
少しだけこの本の内容に触れておこう。
横尾氏はスピリチュアルな人物で、自身のうちに抱えるカルマを越えようと、ヨーガを修養したらしい。
しかし、やれどもやれども解き放たれるどころか膨らんでいってしまう。
あるときに禅僧に出会い、『只管打座』(ただ座る事)を知り、禅へと移行していく。
私も道元禅に興味があるものの、どうにも落ち着きがなくて、ただ座っていると言う事が難しい。
だから、ヨーガを行っているという側面も持ち合わせているが、このただ座ることを難しく考えすぎていたのかもしれないと思った。
これは解釈の違いかもしれないが、
道元禅に置いて、座禅すると言う事は『既に悟っている事』を思いだすために、『作法』にはめられた状態を維持することだと思っていた。
けれど、
ただ座るだけ。そこに作法はあるかもしれないが、無視してもいい。とりあえず座っているだけ。
と横尾氏の文章を読んではっとさせられた。
自分は別に悟りたいという思いがあるわけでもないし、道元がみた地平を拝みたい訳でもない。
ただ純粋に、実践してみたかっただけだと思いだした。
こういう思い込みから自由になるのは本当に気持ちが楽になる。
横尾氏の感じたインドは確かに私のインドでもあった。
沢木氏の語ったインドはイメージから1mmもぶれることなく現実のインドであった。
きっとこれから先、見聞きするインドは私が知っているインドだ。
けれど、感じた事思った事の全てが言葉や思い出になるとは限らない。
だから、そうやってひとつひとついつの間にか丁寧にインドを解体していく。
そして、全く新しいインドと出会うのだろう。
・・・・インド大絶賛だな。笑。
インドへ (文春文庫 (297‐1))/横尾 忠則

¥650
Amazon.co.jp
彼のみたインドはいかなるものか?知りたくなって読んでみた。
総括してしまうと、
インドと言う国については誰の感想を聞いたところで、『同じ』である。
と気付いた事が最大の成果だと言える。
インドは汚くて、乞食がいっぱいいて、乞食でない人も乞食みたいに汚くて、食事で腹を壊し、
徹底したカースト制が根付き、色とりどりのサリーとはっきりとした目鼻立ちの女性に目移りし、
バイタクの料金交渉で声を荒げ、自分を見つめ、ガンジスを眺め、遺跡では悠久の時の流れを感じ、
荒涼とした大地、花咲き誇る眼前の景色に理想郷を重ねる・・・・・・・。
こういった具合に羅列していけば、していくほど、インドに近づいているのかと言えば、
そうでもないような気がする。
いつも同じ距離感でそこにある。それがインドではないだろうか。
だからこそ、いつも驚きがある。
例えば、最寄りの駅はいつもそこにある。
それは間違いない。
今年の3/11以降の駅は人であふれていた。
人数規制を行い、駅の外まで人の列が長く延びていた。
その場所は確かに最寄りの駅だけれど、
見えてくる光景からそれが最寄りの駅のイメージから遠くかけ離れている。
だからと言って、そこが最寄りの駅じゃないとは思わない。
いつもと同じ場所に同じようにある。けれど、人が、つまりは変化が多い。
インドでは全てがあふれているような気がする。
富も貧困も死も生も、人も、自然も、建物の、車も。
膨大な量が生成するエネルギーがそこにあるだけ。だけ。
少しだけこの本の内容に触れておこう。
横尾氏はスピリチュアルな人物で、自身のうちに抱えるカルマを越えようと、ヨーガを修養したらしい。
しかし、やれどもやれども解き放たれるどころか膨らんでいってしまう。
あるときに禅僧に出会い、『只管打座』(ただ座る事)を知り、禅へと移行していく。
私も道元禅に興味があるものの、どうにも落ち着きがなくて、ただ座っていると言う事が難しい。
だから、ヨーガを行っているという側面も持ち合わせているが、このただ座ることを難しく考えすぎていたのかもしれないと思った。
これは解釈の違いかもしれないが、
道元禅に置いて、座禅すると言う事は『既に悟っている事』を思いだすために、『作法』にはめられた状態を維持することだと思っていた。
けれど、
ただ座るだけ。そこに作法はあるかもしれないが、無視してもいい。とりあえず座っているだけ。
と横尾氏の文章を読んではっとさせられた。
自分は別に悟りたいという思いがあるわけでもないし、道元がみた地平を拝みたい訳でもない。
ただ純粋に、実践してみたかっただけだと思いだした。
こういう思い込みから自由になるのは本当に気持ちが楽になる。
横尾氏の感じたインドは確かに私のインドでもあった。
沢木氏の語ったインドはイメージから1mmもぶれることなく現実のインドであった。
きっとこれから先、見聞きするインドは私が知っているインドだ。
けれど、感じた事思った事の全てが言葉や思い出になるとは限らない。
だから、そうやってひとつひとついつの間にか丁寧にインドを解体していく。
そして、全く新しいインドと出会うのだろう。
・・・・インド大絶賛だな。笑。
インドへ (文春文庫 (297‐1))/横尾 忠則

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