ここ最近行き始めた近くのヨガ教室は完全な地下にある。

窓はなく、外の空気も感じない。

けれど、その密閉具合が心地良い。

大好きな外ヨガは「動」
風の音、雑踏、作られていない匂い、マット越しに伝わる大地の感触…。

それら全てに溶けて行くような感覚。
自分が無くなって、有耶無耶になっていくような無境界な状態。

それに対して、
別に対する事ではないけれど、
地下ヨガは「静」。

空気の動きを感じず、圧迫感よりも包まれている安心感に近い。
恐らく、胎児の状態。
動き、呼吸といった個の性質が際立つ。際立つと言う事は孤立ではなくて、個性。
胎児が動くように、個のない状態での個性。

私はここにいる。
けれど、その「ここ」とは世界を認識する前の全て。

色んな事を感じはするけれど、その感じている事を「~である」とは感じない。
今ここで感じている事が、今感じている事でしかない。

数字の0にどんな数字を掛けたところで0にしかならない。
それは掛けられた数字が0になるのではなくて、0でしか表現しようがないということだ。

好き嫌い以前、美醜以前の話。詰めてしまえば、そんなところだろう。


そんな空間で行う、陰ヨガだったからか、始めて最初から最後まで呼吸が途切れる事なくヨガを完遂する事ができた。

密閉された空間。そこにあるのは遮断。
もしかすると、目を塞ぎ、耳栓をして行うヨガはより深く身体の内側にダイブする加速度的な方法なのかもしれない。

そうだ、終わりに口にする、「オーム」と「ナマステ」を調べてから寝る事にしよう。

では、おやすみなさい。




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