わかっていましたけど、号泣。

映画化された時のキャッチコピーが
『優しかったお母さんは、
 私を誘拐した人でした』

これで大体の内容にあたりをつけて、
まぁ、間違いなく泣くだろうと思っていました。

映画化される本ってその直前からカバーに映画の写真とかを
載せたりするんですけど、
あれって情報が多すぎる気がするんです。

この本でいえば冷めたまなざしの井上真央と
どうにもあらがえない何かに押され赤ちゃんを抱き締める永作博美。

この二枚の写真から推測する内容と
自分の抱いた感想にブレがなかった事で
この二人の女優の演技力の高さに感嘆しました。


母親とはなんだろうと考えさせるものでもなく、
犯罪とはなんだろうとかんがえさせるでもなく、
男女関係とは・・・・・・

そういう事ではなくて、母性の物語とでもいえばいいのでしょうか。

父性という言葉が対極にならないほど私はこの言葉に力を感じます。

それは役割分担だけでなく、
直に次の命を産み出す力に裏打ちされているからでしょう。

私は男だから、そこに抱ける意味は言葉に出来てしまいます。

つまりその程度の実感しかないのです。

でも、きっと女性は違うのでしょう。

言葉に出来ない。
自身のうちにあるその性質を意識できないのではなく、
把握できない。
言葉にするまでもないかもしれないし、
言葉では足りないかもしれない。

だから、男が考える、言葉に出来てしまう母性などは
たかが知れている。
そう思います。

1章の主人公は必至で逃げ続ける。
作中攫われた両親の話はない。

だから、追われているに違いないだろう。
でも、もしかしたら、このまま・・・・

と作者の意図したとおりに
ドキドキとし、
その合間合間に
ぽわっと光る赤ちゃんの笑顔に
太陽の匂いのような安らぎを感じます。

嘘の付き加減が絶妙で、
その絶妙さに私は、
必死さを感じます。

遅刻の理由程度の嘘ならば、
ばれてしまっても大したことはない。
だから、嘘のバリエーションは意外と少ない。

けれど、
彼女には一見しての物語を推測させてしまう。
若い女性。
生後間もない赤ん坊。
がここにいる理由。

とっさに作られる物語に対して彼女が付く嘘
その心理状態が私には母性の為せる業なのかと。

こんな言葉では軽すぎるかもしれませんが、
『育てずにはいられない』
そんな心理状態に陥ってしまっているのではないでしょうか。


つかの間の幸せ。
偽りの母子。

それはわかってる。

でも、戻らない。




2章に入り、物語は加速します。
ある終着点を目指して。

読者それぞれが思い描くエンディングがあるでしょう。

私が考えていたものではありませんでしたし、
そこはもうどうでもよくなってしまいました。

私の中での結末は
2章の主人公が自分の気持ちに気付く部分です。

そこから先はほとんど泣いてました。笑。


心の動きを止めてしまうのは今回でいえば、
マスコミの騒ぎでした。

それに踊らされて、一般社会の人々は適当な反応を示します。

その反応の一番面倒な点は
その態度が何かに影響を及ぼしているとは思っていない点でしょう。


今回の震災でも、先日の韓流偏重にしても、
メディアというものの持つ力と言うのは凄まじい。
そしてそれらに騙されないように気をつけている人々が
それを伝える手段としてメディアがあること。

簡単に言ってしまえば、
嘘をついてもそれを信じさせさえできれば真実。
ばれたら嘘になる。

そしてそれは事実に対してもそうだと言える。
最近赤ちゃんを虐待するニュースが多く感じられるけれど、
はたして本当に増えたのだろうか?
単にばれやすくなっただけで、実際の数はそれほど変わっていないのでは
ないだろうか。

当然、根拠なんてものはない。
けれど、疑うと言う事はそういう事だろう。

言いたいのは、

虐待が増えてます。
と社会に訴える事で恩恵を受ける何かがあるのではないかと。

それは単純に法案であったり、
その部分での人心を掌握することであったり。


私たちの精神状態と言うのは
自分たちが思っている程自由ではないのかもしれない。

主人公はある意味それを知っている。
そして、無視することを選ぶ。

けれど、無視しきれない事もまた事実。

「本当は憎みたくなんてない」
という主人公の深層の吐露は
余りにも切実である。

八日目の蝉が見なければならない風景
がそこにはあった。




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