物語の終盤、作者がバイタクの運転手が勘違いした事で、予期しなかった行き先のバスに揺られる事になる。

地下鉄に乗りながらその場面に差し掛かった時、私もふと、この電車が何処へゆくのかという馬鹿げた不安と耳かき一杯程度の期待を抱いてしまった。

当然、いつもの駅に着いた。

けれど、その擬似体験が心にあるちょっとしたしこりを柔らかくしたような気がした。
長期の旅が終わってから、もう何年経つのだろう。
日本を見て回るまでは世界には出ないよう戒めていたが、それにも少し飽きて来た。

日本を旅した時の一番の不満は、混雑だ。皆が同じ時期に休みを取るのだからあたりまえだし、観光地に足を向けているのだから避けられない現実だとは分かっている。
けれど、そこにあるのは観光であって、旅の一部でしかない。
極端に言えばその過程だけが、旅なのだ。
そのせめてを長くするためにあざといほどの長距離移動をするのかもしれない。
けれど、何かが積もる。
埃のような、滓のような気にもならない何かが。
堆積し、重量を持ちはじめ、揺られ、詰まり、固くなる。
それがしこりとなってしまっていたことに気がつかないふりをしていた。

まるで、すれ違い様に肩を叩かれたような静止。
読んでいる時の感想を一言で言えばそうなる。

深夜特急から始まった旅への憧れは止む事を知らない。
依存症のように旅に、遠くに、異国に思いを馳せる。
知られている観光地はスパイス程度に、ただ文化の違う人々や街並みや雑踏の只中に身を委ねる。


著者が辿ったルートは逆方向ながらもほとんど同じ。
カントーのホテルなどはもしかしたら同じホテルかもしれない。

ホーチミンからハノイまでの途中下車バスの旅。

その車窓を眺める著者は言う。

「バスに乗って窓から綺麗な景色を見た時、誰かと一緒だとの旅だと、『綺麗だね』『うん、綺麗だ』で完結しちゃうけど、一人だとその綺麗だという思いが胸の内に静かに沈んで行って熟成されていく」

確かに誰かと共感し共有する事はかけがいのないものだろう。そして、その時その言葉以上の意志の疎通が行われている事は間違いない。
けれど、その時流れていく車窓からの景色にその誰かが常によぎることになる。

それがどうのこうのと言うよりも単純に旅とは一人でするもので、
さびしくなれば地元のバーにでも市場にでも出かければ事は足りてしまう。

ここで言いたいのはその誰かの重要性ではないのだから。

人の旅の話は基本的に面白い。
出来れば一人旅の話が良い。
それはその人が理解できるからだ。
誰それといたどこどこの思い出を聞きたいのではなくて、
あなたの旅が聞きたいのだ。

最近はどこに目をやってもイアフォンをし、外界を遮断している人が目につく。
大人から子供までまるで自分の殻に閉じこもる事が自身の表現であるかのように。

そんな思いを常日頃から持っている自分には、本書に書かれていたデンマークの少女の話が
とてもお気に入りだ。

自分がベトナムへ行った事があるからだろうし、同じような経験をしてきたからだろう。
いちいち腑に落ちたし、懐かしくなった。

ここ数日少し寒くなったが、まだ、蒸し暑い日は続きそうだ。

333は近所に売っていないから、
昼間に練乳たっぷり入れたアイスベトナムコーヒーをたしなんで、
この落ち着かない心を静める事にしよう。

あーーーーーーーーーーー、旅がしたい!!









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