以前、母親が貪るように読んでいた一冊。

気になったその時に調べてみたら絶版になっていたので読んでみることに。

先ずは、言葉が美しい。
昭和初期の作品だからなのか、文学だからなのか、言葉の推敲が素晴らしい。

私などは文学の何たるも知らないただの読者だけれども、言葉は毎日使っている。
使うと言ってもコンビニで、ありがとう、とだけしか口にしない日もあるし、酒の席で他愛も無い言葉の音だけを楽しむ事だってある。
どの瞬間でさえ、考える事なしに何事かを考えている。それは言葉で。言葉なしで。

だからこそ、幼稚な言葉でしか思考出来ない自分の言葉の浅さを知っている。
本能的に負けを認める人間に会った時に感じる圧倒的な存在感をこの本からは感じる事が出来る。それは、本筋とは関係のない人間としての敗北感に近い。
だからといって、落ち込む理由にも成らずただただ感嘆するばかり。
私が美しい感じるこの言葉の美しさとはなんなのか考えさせられた。


物語は結婚を迎えた娘に今の母ではなく、小さな頃に亡くなった産みの母の手記とそれを読んだ娘の感想で完結する。

大半はその手記であるが、その精神性が美しい。
けれど、美しいとは語弊があるかもしれない。

さらに付け加えるとしたら、美しくない美しさとでも言えば少しでも近づくかもしれない。

夫を信じ、ヤキモチを焼き、理想に近づこうとしてそのギャップに嘆息する。子供が産まれ、母となり潔さを身につけ、病に倒れる。

一連の流れは決して珍しくもない。けれど、息づく。

そして、娘はあっさりとそれを乗り越える。が、母の無意識の真意はそこにあったのではないだろうか。


これ以上のあらすじになぞった感想はやめておこう。

兎に角、言葉は道具でしかない。
けれど、一枚の紙で美しい花を折れる人がいる様に、言葉はかくも美しくある事が出来る。

浅田次郎の精密な文章とは違う。
北村薫の優しい文章とは違う。
伊坂幸太郎の洒落た文章とも違う。
敷いていえば、
シェイクスピアのそれに近い。

こういった本が絶版になってしまうのは寂しい限りだ。
有名無名人気不人気を問わず本を読んで行く勇気がもっと欲しい。





巴里に死す (新潮文庫 せ 1-2)/芹沢 光治良

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