ある年齢以上の人には馴染みがあるかもしれない。恐らく当時の騒ぎはすごかったのでは無いだろうか。

うちの両親にも共通しているが、精神病院に対する恐怖感と言うのはこのルポから来ていたのでは無いだろうか。

たった、40年ほど前の事だからこそ、現在が気になる所だ。

しかし、現在は心療内科という分野が存在し、当時よりも社会的に理解、認知されているし、ああいった病院がなくなったと思うのは楽観的すぎるだろうか。

精神病院にアル中の振りをして患者として潜り込み、患者側から見た病院の対応を書き出している。
そこには、利益を挙げるための方策も絡んだり、精神病とされる人々を看護する側の論理もある。

姨捨山と化したその病院内で行われた非道な扱いを手放しに私は批判出来ない。
捨てたのは「私」なのだ。

ろくな検診もせず、薬を処方し、骨抜きにして、判断力を鈍らせ、良い様に扱う。力と拷問と呼ばれる事もあるであろう電気を流したり、小便の匂い立ち込める病室での雑魚寝は心身共に弱めて行く。

作業療法と大義名分を振りかざし、労働者としてこき使う。

このルポの批判に、政治が悪いと何故言わない、と投書が来たらしい。

これは全く医者の発言とは思えなかった。

政治は生活をより良くはしてくれない。そこに期待するのは自立を怠っているに過ぎない。
政治とは確かに民衆にある程度の暮らしを保証してくれるかもしれない。

自己保身の上記の言葉には医者とは思えぬ甘い気持ち悪さを感じてならない。


当時、行われていたロボトミーに関して。
感情の抑揚を無くし、言われた事は行うが、意欲無く、すぐ飽き、人と交わっても交わりきらない、生気を感じない。

前頭葉のある部分を切り取る事で性格を穏やかにできると言われていたが、死亡率も高く、今ではもう行われていない。

ある意味、物事に固執しない様などは、己を超える、超己に近いのでは無いかと思いもしたし、老子の説くタオにも、近いのでは無いかと感じた。

しかし、根本的に違う。
そこには、超えるべき己が喪失しているだけであって、あるがままであることから遠く離れてしまっている。


決して面白い読み物では無い。
けれど、しっかりと腹に納めておかなければならない現実の一つであることには違いない。

世界は春だけで成り立っている訳ではないのだから。





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