心臓発作と聞くと対処出来ない不安にかられがちだ。

けれど、どうしようもない事はどうしようも無い。
しかも、重度のものになるのは少ないらしい。

だから、自分は大丈夫と思っていた。

今も思ってる。

ただ、真剣に考えてみるとなかなかどうして、面白い。

一瞬一瞬を真剣に生きる。
言葉にするのは簡単だが実践するのは難しい。
けれど、その難しさをなしているのは未来を過信しているからに他ならない。そういった人は多いだろうし、自分もその一人であるからこそ、彼らは未だ来ぬ世界に身をおいていると言える。

と同時に5分後の世界の責任を放棄している。
何故ならば、5分後に死んでしまう事に目を瞑っているからだ。

5分後に息絶えると知った瞬間から死までどう生きるかその時決めるのは遅すぎる。
だからこそ、死んでも良い様に前のめりである事が自分の人生に責任を持つ事になるのだ。

いつ来るかわからない心臓発作に怯えて暮らすのといつ何時それが訪れても良い様に生きるのとの決定的な違いは人生の充実などという主観的なものでは無く、無駄な無駄が無くなる、生物としての純度が増す事ではないだろうか。

迷子も良いさと旅人になるならいざ知らず、荷物が増えて身動きが取れなくなるからこそ諸々の言い訳が明日を一年後に、一年後の自身の死に責任を持てずにいる。

だからこそ、今があり、今しかなく、今が全てなのだろう。
今出来る事は今しか出来ない。
未来に出来ると思っている事は今する事ではない。

時間とは実は物凄く断続的のような気がする。
時計化された、道具化された時間が視覚的に連続してが故に時間そのものも連続であると錯覚してしまっているからこそ、「今」振れた秒針に今の今を見いだす事が出来ず、「見ていた事実」に今を重ねる。

そこは既に過去を追っている作業に過ぎず、残念な事に「今」をないがしろにしてしまっている。

もしかすると、時間に対する教育の仕方が間違っているのかもしれない。
昔の記憶を掘り返せば、時計の読み方は教わったが、時間そのものもについては教わった記憶がない。

いつかは死ぬ。
だから、今を生きる。楽しく生きる。
と言うのは死ぬ事が前提になっている。
しかし、過去の自分などはすでに死んでいやしないだろうか。
記憶でなく、経験でもなく、あるがままの自分とは厳密に言えば、今の今しかないはずだ。
そう考えると、死と言う現象に己の消滅をイコールで結びつけてしまう解釈に疑問をいだかざるをえない。

老化して行く事で、死に近づくのではなく「存在の在り方」が移ろいで行くのではないだろうか?
それを天国地獄と結びつけるのも良いだろう。あっても仕方ないとは思うが。

感情や肉体の反応は本来既に過去だ。
だが、その過去によって生きている事を実感させる。
実感はその時を縦横無尽に駆け巡り、時計やカレンダーがその過去を照らし、確定したかのような未来を提示する。そこに、人生を見い出し、己を省みたり、思い描いたりしている。

その時はあっという間に違いない。その瞬間に今感じている不安は恐らくないだろう。
わずか、数十年の経験で未知を割り切ろうとしている自分の浅はかさのみが成せる事だろう。

空気を拒む事は出来ないし、しようとも思わない。全くそれと同等の事であるだろう。


書こうと思っていた事と全く違う方向に進んでしまった。

またの機会に続きに潜ってみよう。