なんども膝打つ。

そうかそうだったのか。と。


冒頭で語られる、海岸沿いに見える一本の『木』の違和感=緊張感から

それは『朽ち果てた船』であると見えるようになる過程において、

『木』が『マスト』になり、船首が見える事で『船』になり、

それらを統合して『朽ち果てた船』と認識するのではない。

『朽ち果てた船』と認識するときに世界は再編されている。


なんともドラマチックな論理展開。

副題が『哲学者は詩人でありうるか?』ということだが、本書は

詩的でありながらも、それらを論理的に展開していく。


このNHK出版の哲学のエッセンスシリーズはとても読みやすくて、わかりやすい。

いや、まだまだちゃんと理解は出来ていませんが。


時間について語られた部分は本当に痺れました。

時間の流れを川に例えるのは間違っているという趣旨のもとに話を進めていく。

河岸に立っているならば川の流れに逆らう事も可能になってしまうと言い、

川の中で流れに身を任せているとすれば、時間と自分は同時代的に進んで行く事になるので、

私には時間が流れていないことになる。


ここで痺れた。

これはつまり道元の言っていた事と通じているのではないかと。


永遠の中の一瞬に生き、一瞬の中の永遠に生きる。

言葉の意味としては捉えられるけれど、

それを体感として獲得するまでには至っていませんでした。

が、結局上記のような事だったのではないか。

時間とは絶対的なものではなく、

自分という主体が現在を生きている事で生まれるある種の錯覚であり、

今現在、この一瞬というもの以外は存在していないし、

存在出来るはずもない。


それをメルロ・ポンティは時間が身体から滲み出していくと表現しているのではないだろうか。


哲学者の宿命は知を愛する事であるが、哲学者が知者になることは叶わない。

それは彼らが言葉になっていないモノゴトを言葉にしようと悪戦苦闘しなければならないからであり、

それはつまり、詩人の行為と同じである。

しかし、哲学者は詩人にはなれない。

詩人は時間を切り取り、

哲学者は時間の流れを追って言葉を紡いでいく事しかできないからだ。

それでもなお、哲学者は詩人足りえないのだろうか?

それはそもそもの『詩人』としての定義からやり直していかなkればならないだろう。

私にしてみれば、この本は詩集の解説本と何ら変わらない印象さえある。

それほどに峻烈としたエッセンスが随所にちりばめられているからだろうか?


『ある』けれど言葉にした事のない『空間』。

ある建築家の空間を誰かがこう評していました。

『初めて入った空間なのに、どこか懐かしさを覚える』と。

それはある種最大の賛辞でしょう。

あんなに奇抜な建築なのに。

ちぇっ、行ってみたいゼ。




メルロ=ポンティ―哲学者は詩人でありうるか? (シリーズ・哲学のエッセンス)/熊野 純彦

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