祈りとは敬虔なり。

なぜだろうか。


チベットでも日常生活の中に祈りが溶け込んでいた。

パキスタンでもある時間になると誰もが祈りを捧げた。

埃っぽい大地の中で祈りを捧げる彼らの姿は人間臭くて、とても救われるような気がしない。

ただ、祈るという行為そのものが、『いただきます』と同じように、

彼らの生活にあると言うだけ。

仏教徒とは言うものの、実感するのはお葬式の時だけ。

どうして日本人は祈らなくなったのだろうか。

それとももともと祈らない人種なのだろうか。

けれど、檀家だって少なくなったにしろあることはあるし、

初詣には人でごった返す。

そこが神聖な場所と言う事はわかっているんだと思う。

神社仏閣でばか騒ぎをしている不良というのも見た事がないし。


浸透はしている。でも、表には出ない。

それは日本人特有?の恥じらいなのだろうか?

自己主張をして、お金をもうけて、自分のしたい事だけをやって行く事が『良し』

というか、『かっこいい』姿として、どこかに根付いてはいないだろうか?


私は一切彼女のキャッチフレーズには共感できないが『エロかっこいい』と言われている。(古い)

少なくとも『エロ』くもなければ『かっこよく』もない。

だが、メディアが彼女をそうだと決めた事で、エンドユーザーに新しい価値観が根付いたのだ。

戦略のうまさとしか言いようがない。

その派生語で『ダサかっこいい』『ぶさかわいい』など、相反する言葉をつなげて、新しい

意味をその対象に与える動きが今でも見られる。

新しい言葉を生み出してく流れと、今までの言葉を学ぼうとしない流れが合流して、

学ばなくても表現できる事柄を増やしているような気がする。

それはうすら寒い気がしないでもないが、新しい言葉というのも惹かれないわけではない。


その昔、塾で勉強していたときに余りに暇なので、新しい漢字を作ろうとした事があった。

ドリルの適当な空白に、『あいうえお』と読む漢字を自分なりに作ってみた。

なぜそうしたか。

それは、万が一世界中の書物がなくなって、自分のこのドリルだけが発見された場合、

その後の人類史に『あいうえお』と呼ぶ漢字があった事になるのが何ともいえず、

好奇心をかきたてたからだ。


今の新しい言葉というのもそれに近いのかもしれない。

新しい言葉を作り、新しい価値観を育む。

それによって情操が豊かになればなお一層素敵な事だと思うが、

どうだろう。


と話が明後日の方向へ進んでしまった。


本書はチベット、メッカ、エチオピア、そして、ヴァチカンの歴史とそこに集まる現代の人々を

見つめたエッセイである。

写真がとても美しく、そして引き込まれる。

お金がなくて断念した『カイラス山』。

チベットには二度と行かない気はするが、

あの空の青さと空気の薄さ、そして、一日のうちに春と冬を体感してしまう想像を絶した

時間の流れは決して忘れる事はないだろう。

西寧へと向かうバスから見えた風景に『世界の果て』と言っても良いような衝動に駆られた。




祈りの回廊 (小学館文庫)/野町 和嘉

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