この本を読んだ一番の感想は、

人間とは、悟りとは、禅とはといった事よりも、

日々の生活そのものの見直し。


典座と呼ばれる給仕担当者は
昔から高僧が行うものだった。

それは、命の源である食事を
丁寧に扱えるようになるには
その程度の修行が、心構えが必要だから。

小僧に任せたら、食のありがたみも
わからず、食べてくれる人々に対する気遣いもなく、
ただ言われるがままに行ってしまう。

それは心からの所作ではなくなっている。


何にせよ、一つ一つの物事を丁寧に行っていく事は難しい。

今では顔を洗う動作すら、朝の忙しさにかまけて、
荒々しくぞんざいになってしまっている。

道元はそういった顔を洗う作法に関してもうるさく
決めているらしい。

なぜなら、
顔を洗わなければ、自分が気持ち悪い。
眼やにがついた顔を見た人も気分が悪い。
洗面台の周りに水が飛び散れば、
次の人の事を思いささっと拭く。
だから、出来るだけ静かに顔を洗うように心がける。
などなど。

すっかりと洗った顔で人前に出ることで
気持ちをニュートラルに持っていく事。
マイナスから0に引き上げる事ができる。

全ての物事が実相を表しているとするならば、
食事一つ、豆一つにしても、『仏の実相』そのものを
口に入れているという事になる。

とまぁ、食い意地が張っているせいか、食事の
部分はとても納得しやすかったです。


科学と宗教は一度離れ離れになりはしましたが、
恐らく、互いに触れ合っていくのではないかと思っています。

それはつまり、どちらも世界の深淵をのぞこうとしている点では
同じものを目指しているからです。

手段や方法が違うだけで、もしかしたら行きつく結果は同じなのかもしれません。

それを真理というか、最も小さな物質というかはわかりませんが。

形作られる空間、その場に内在する力。

最近、写真というのはそれが顕著に現出させられる道具なのではと
思っています。

トイカメラのあいまいな空気感は眼で見ているものとは違う。
けれど、どこか、安心できるような、懐かしいような
そんな感情をほうふつとさせます。

また、性能の良いカメラで切り取った風景には
静寂があります。

以前旅に出ていたとき、いろんな世界遺産を見て回りました。

テレビで見て、期待に胸をふくらましていったものです。

しかし、実際にはテレビから映し出される印象を感動を
超える遺産はありませんでした。

それは自分がみた全ての世界遺産に言える事でした。

なぜか。

そこに観光客がいるから。

その場にある空気がかき乱され、薄くなっているのです。

そもそも、後世で認定した世界遺産のもともとの目的は
それぞれに違った理由があり、決して、観光地では
無かったはずです。

だからと言って、観光地を否定しているわけではありません。

ただ、本当の姿をみたい、感じたいならもしかすると、
テレビで十分かもしれ無いということです。

でも、本物の持つ空気、質感、その土地の温度湿度、
そういった全てがあいまって触れる楽しみがある事も
否定できません。

自分もどうせ見るなら本物を見たい。

でも、ルーブルに飾られている『モナリザ』が
本物ではないのでは?という疑問から、
自分にとって飾られている『モナリザ』は
何て事なく、美術の教科書で見た事のある、
なじみの絵でしかありませんでした。

本物も偽物もない。
本質的には感動したものが本物なんだ。
という事になるのでしょうか?

道元は言います。
常に、『今、ここ、この時』と。
未来などなく、あるのは『只今』だと。

死ぬときは死ぬ時。
それまでは、生かされているその身、
修行を重ねる事が必要だ。

大物にならなくても、本物でありたい。
ならば、本物とは?

…もう一度、読み返してみます。笑。