さて、電車でふと先日書いた五感喪失について

考えてしまいましたので、

ここに記録しときます。





触覚がなくなって、自分、自我へと陥るのは

まぁ、多分間違ってはいないかなと。

いや、間違っていないとして、

それは一側面でしかない。


一つに、

自我が薄まっていく傾向に向かっていく。

一つに

自我に固執してしまう。

せっかくと言うのもなんですが、

自我固執してしまうのは、

五感すべてがなくなって、

意識のみが残ってしまった場合、

その無くしてしまった事に固執してしまう。

無い物ねだりを突き詰めていってしまう。

でも、それはどんなに求めても、

奇跡を願っても

到底かなわないと

自覚している。

だからこそ、

嘆いてしまう。

自分というものに

自分と意識しないながらも、

気づけば自分に帰ってきてしまっている。

つまり、五感を失う事で、

仏教でいう、

五蘊というものに酷く執着してしまうという

結果になってしまう。



美味しいステーキが食べたいな。

でも、

食べられないな。

あの人の髪の匂いは良い匂いだったな。

もう二度と嗅ぐことはできない。


そうなってしまうと、

実相、物事の本質から遠ざかってしまう。


だから、五感を無くすという事は決して、

涅槃に近づくための行為ではない。


五感は信用できない。

でも、それは、『自我』があるから。

その『自我』のコントロール。

もしくは、

無視という行為が実相を見つめる為に

必要になってくるのではないだろうか?


般若心経の本を読んでから、

ずーーーーーーーーーーーーっと思っている、

自我と空。


そもそも、発端は建築の心地いい、

今までにない素敵な経験が出来る、

そんな空間を目指しての事なんです。


思春期からもやもやっとしていた、

この自我という存在が、

ここにきて、クローズアップされて

ちょっとでも、良いから

糸口をつかみたい。





話は飛ぶように感じるかもしれないけれど、

空気について。

空気って、すごく自由。

呼吸している事をほとんどの時間忘れているけれど、

常に『ある』。

どんなに狭い空間で、たとえ、満員電車の中だって、

縛られることなく、窮屈と感じることなく、

空気は空気である事をやめないし、

否定という概念すらない。

でも、時折、ないがしろにされるし、

忘れられもする。

別に空気に感情があるわけではないけれど、

人が怒ったり、

悲しんだり、

喜んだり、

それは、空気でわかるときがある。

そこに『空』という

現象が起こっているのではないだろうか?

見た目には何も起こっていない。

でも、感じる。

それは、眼かもしれないし、

言葉かもしれない。

それが発端となって受け取る。

その受け取るのは自我だとしても、

彼と自分との距離を埋めるのは

『空』ではないだろうか?

いや、違うかな。



ちょっと酔っぱらってる。



なんだか、自我というものすら

あやふやになってきそうだ。


般若心経では、

最後の最後で、

唱える事を推奨する。

それは乱暴に言ってしまえば、

考えても分からない。

実感できないから。

だから、唱える事で、

それが真理だとして、

言葉の響きに隠されている、

それこそ、『空』

というものを、体感する事を薦める。

それでしか、実感できないという事を

示唆している。


そして、そこへ行きたくない人間は、

ひたすらにない頭を絞って考える。

悟りを開きたいのではない。

悟りの境地を自分の言葉で語りたいだけなのだ。


仏教がこれだけの宗派を持ってしまったのは、

不勉強だから恐れずに言える事だけれども、

おそらく、言葉のあいまいさ。

ではないかと思う。


いかようにも解釈出来て、

捉え方は人それぞれ。

もちろん、その自由さが面白いんだけれども。



その中で、カリスマや説得力のある人間の意見が

まかり通り、宗派が分離する。


今のこの枝分かれをみて、

仏陀は何と言うのだろうか?


何も感じないのかもしれない。


回り道をしていると感じるのかもしれない。


そういう解釈があったか!と

膝を打っているかもしれない。


それはまぁ、どうでもいいや。


とにかく、電車の中で、

反対側の席をじっと見つめながら考えてしまい、

その周辺の方々にはさぞかし、

不気味に映ったに違いない。

ここにお詫び申し上げます。


まとまっていない文章ほど醜いものはないなと自戒を込めて。