『触覚』
とうとう、触覚もなくなった。
それに併せて、痛覚もなくなり、
温度も感じなくなった。
自分が世界の中心で、
自分が世界の端っこで、
世界は点で、
特異点で、
無限大に広がっている。
朝は意識が覚醒したと自覚した瞬間から朝になる。
朝と言うのは一般的な朝ではなくて、
占いとかをやっている時間帯の朝ではなくて、
あくまでも一日の始まりという意味でしかない。
この一日という感覚もウソみたいに自分の中から
すっぽりと抜け落ちている。
眼が見えず、日暮れも、満月も分からず、
夕暮れ時のカレーの匂いもしてこない。
朝だと思った時が朝で、眠くなったら夜。
そういう事にしている。
大体、眠くなるという感覚も、
かなり曖昧で、いつ寝たのかという自覚は
まるでない。
気が付いていたら、寝ていた、のかもしれない。
程度でしかない。
ただし、夢を見る。
その夢は、ごちそうがあって、飛んだり跳ねたり、
絵画を鑑賞したり、プールで泳いでみたり。
色があり、音があり、以前の現実がそこにある。
夢から覚めると、真っ暗な世界。
もちろんそれは視覚的に真っ暗なだけであって、
以前ものを見ている自分には色を思い出す事も出来る。
日中はそんな風に世界を思い描く。
自分を見つめている。
笑顔というものを忘れた代わりに、
怒りというものも忘れた。
いや、覚えてはいるけれど、
どうすればそういう感情になっていたのかを
忘れてしまった。
面白かった事苦しかった事。
思い出がどんどん遠ざかっていく。
自分で作り上げる世界に居場所を奪われていく。
それと同時に、薄れていく。
もっと記憶が明確にくっきりと縁取られる。
そう思っていた。
けれど、思っていた以上にそっちの世界は
広がらない。
ただのループ。
かといって、自分の世界が豊かなのかそんな事は
わからない。
今の自分が焦がれる景色は
無い物ねだりで、
羨ましがっているだけなのだ。
だから、自分を突き進む。
掘り下げる。
見つめなおす。
言葉なんてどうでもいい。
いや、これは言葉ではないんじゃないだろうか?
誰かに聞かせる為でもないし、
自分が理解するためのものじゃない。
『あ』というひらがなを思い出せはするけれど、
それに『あした』なんて自分にとっては意味がない。
きっと、死んでしまった事にも気がつかないのだから。
とにかく、自分という存在が浮き彫りになる。
それしか自分には残っていないのだから。
感じられる世界はもう外にはない。
内側。
体の、殻の内側にしか、世界はない。
死の恐怖と言うものも感じない。
そもそも、恐怖と言う感情はなんて虚弱な感情なんだろうか。
今自分が最も怖いのは、元の感覚に戻ることかもしれない。
刺激が多すぎてパンクしてしまいそうだ。
今、僕の脳はきっとどこかのリミッターが降りきれている。
そんな気がする。
無くした感覚を補うための補助。
そんな状態のまま、元にもどったら、
視覚嗅覚味覚聴覚触覚。
すべてが、百万本の針で串刺しにされるようなものじゃないか
と思ってしまう。
それは恐怖、か。
さて、問題に立ち帰ってみる。
この感覚ははたして『空』であるのだろうか?
空というよりも無に近い気がする。
感じられないという事は、『空』という本質と向き合う事が出来ない。
自分という存在を意識することはできるが、
たかが自分。主張するほどの個性も必要なく、
ただ、ある。自分。
存在している自分。
感覚を薄めることで、『空』というものが感じられるかも
しれない。
それは、あくまでも薄める事で、
無にしてしまうと、『個』しか残らない。
薄めると言うのは、対象から受ける印象等を、
無くしてしまう。
そこにあることを理解しつつも、それ以上でも以下でも
ない。
ただ、今思ったのが、『空』というのは
結局、『穏やかさ』と言い換えてしまっても
とりあえずは構わないような気がする。
好き嫌いの分別もなく、
期待や幻滅もなく、
存在するものを存在するものとしてだけ、
捉える。
それが『般若』へといたる準備になるのではないだろうか。
その為の、『色即是空 空即是色』なのではないだろうか?
究極の『穏やかさ』それが悟りの一部だとすると、
しっくりくる。
感情が豊かな人の方が付き合い安い部分もある。
でも、それはどうも欧米教育の受け売りのような
気がしてしまう。
楽しい事しかしない。人生を楽しみたい。
しかし、それは、同時に苦痛と言う存在を認めてしまって
いる事に他ならない。
なぜならば、向こうの考えは基本的に二元論であるからだ。
まるで、日本人のアルカイックスマイルが表現下手のように
思いこまされ、原色が優れ、くすんだ色が否定される。
笑顔が最大の美徳と刷り込まれ、YES・NOと言える事が
良とされる。(もちろん、ビジネスではそうであるべきだが)
幸福は求めなければやってこない。
夢は必ず叶う。
この前向きな言葉の恐ろしいところはやはり常に反対の意味を
示唆しているところだろうか?
幸せになりたいと思い、毎日寝る前に10分間イメージトレーニング
をして、眠りについて、
ある日忘れてしまったら、それを『一歩後退』と
感じてしまう事もあるのではないだろうか?
ならば、初めから、やらないほうが良かったのでは
ないだろうか?
とまぁ、垂れ流しがひどくなってきたのでこの辺で。
この著作はすごくわかりやすくて、でもやはり、
般若心経の難解さを痛感させられる。
最小の物質を追い求めるが、最近では、
粒子でもあり、波でもある。
そんな見解だそうです。
本書にも示されていますが、
最小の物質はそれ以上割り切れないということになるので、
その物質は面を持たない。
さらに、
その物質同士がくっつくときに
互いの左側と右側をくっつけるとして、
そこに部分が出来てしまう。
部分があると言う事は
全体があり、分割できてしまい、その物質は
最小ではなくなる。
だから『粒子であり、波である』と。
別に仏教とか自己啓発とか、そんなものではなく、
哲学書として読める入門書ではないでしょうか。
現代語訳 般若心経 (ちくま新書 (615))/玄侑 宗久

¥735
Amazon.co.jp
とうとう、触覚もなくなった。
それに併せて、痛覚もなくなり、
温度も感じなくなった。
自分が世界の中心で、
自分が世界の端っこで、
世界は点で、
特異点で、
無限大に広がっている。
朝は意識が覚醒したと自覚した瞬間から朝になる。
朝と言うのは一般的な朝ではなくて、
占いとかをやっている時間帯の朝ではなくて、
あくまでも一日の始まりという意味でしかない。
この一日という感覚もウソみたいに自分の中から
すっぽりと抜け落ちている。
眼が見えず、日暮れも、満月も分からず、
夕暮れ時のカレーの匂いもしてこない。
朝だと思った時が朝で、眠くなったら夜。
そういう事にしている。
大体、眠くなるという感覚も、
かなり曖昧で、いつ寝たのかという自覚は
まるでない。
気が付いていたら、寝ていた、のかもしれない。
程度でしかない。
ただし、夢を見る。
その夢は、ごちそうがあって、飛んだり跳ねたり、
絵画を鑑賞したり、プールで泳いでみたり。
色があり、音があり、以前の現実がそこにある。
夢から覚めると、真っ暗な世界。
もちろんそれは視覚的に真っ暗なだけであって、
以前ものを見ている自分には色を思い出す事も出来る。
日中はそんな風に世界を思い描く。
自分を見つめている。
笑顔というものを忘れた代わりに、
怒りというものも忘れた。
いや、覚えてはいるけれど、
どうすればそういう感情になっていたのかを
忘れてしまった。
面白かった事苦しかった事。
思い出がどんどん遠ざかっていく。
自分で作り上げる世界に居場所を奪われていく。
それと同時に、薄れていく。
もっと記憶が明確にくっきりと縁取られる。
そう思っていた。
けれど、思っていた以上にそっちの世界は
広がらない。
ただのループ。
かといって、自分の世界が豊かなのかそんな事は
わからない。
今の自分が焦がれる景色は
無い物ねだりで、
羨ましがっているだけなのだ。
だから、自分を突き進む。
掘り下げる。
見つめなおす。
言葉なんてどうでもいい。
いや、これは言葉ではないんじゃないだろうか?
誰かに聞かせる為でもないし、
自分が理解するためのものじゃない。
『あ』というひらがなを思い出せはするけれど、
それに『あした』なんて自分にとっては意味がない。
きっと、死んでしまった事にも気がつかないのだから。
とにかく、自分という存在が浮き彫りになる。
それしか自分には残っていないのだから。
感じられる世界はもう外にはない。
内側。
体の、殻の内側にしか、世界はない。
死の恐怖と言うものも感じない。
そもそも、恐怖と言う感情はなんて虚弱な感情なんだろうか。
今自分が最も怖いのは、元の感覚に戻ることかもしれない。
刺激が多すぎてパンクしてしまいそうだ。
今、僕の脳はきっとどこかのリミッターが降りきれている。
そんな気がする。
無くした感覚を補うための補助。
そんな状態のまま、元にもどったら、
視覚嗅覚味覚聴覚触覚。
すべてが、百万本の針で串刺しにされるようなものじゃないか
と思ってしまう。
それは恐怖、か。
さて、問題に立ち帰ってみる。
この感覚ははたして『空』であるのだろうか?
空というよりも無に近い気がする。
感じられないという事は、『空』という本質と向き合う事が出来ない。
自分という存在を意識することはできるが、
たかが自分。主張するほどの個性も必要なく、
ただ、ある。自分。
存在している自分。
感覚を薄めることで、『空』というものが感じられるかも
しれない。
それは、あくまでも薄める事で、
無にしてしまうと、『個』しか残らない。
薄めると言うのは、対象から受ける印象等を、
無くしてしまう。
そこにあることを理解しつつも、それ以上でも以下でも
ない。
ただ、今思ったのが、『空』というのは
結局、『穏やかさ』と言い換えてしまっても
とりあえずは構わないような気がする。
好き嫌いの分別もなく、
期待や幻滅もなく、
存在するものを存在するものとしてだけ、
捉える。
それが『般若』へといたる準備になるのではないだろうか。
その為の、『色即是空 空即是色』なのではないだろうか?
究極の『穏やかさ』それが悟りの一部だとすると、
しっくりくる。
感情が豊かな人の方が付き合い安い部分もある。
でも、それはどうも欧米教育の受け売りのような
気がしてしまう。
楽しい事しかしない。人生を楽しみたい。
しかし、それは、同時に苦痛と言う存在を認めてしまって
いる事に他ならない。
なぜならば、向こうの考えは基本的に二元論であるからだ。
まるで、日本人のアルカイックスマイルが表現下手のように
思いこまされ、原色が優れ、くすんだ色が否定される。
笑顔が最大の美徳と刷り込まれ、YES・NOと言える事が
良とされる。(もちろん、ビジネスではそうであるべきだが)
幸福は求めなければやってこない。
夢は必ず叶う。
この前向きな言葉の恐ろしいところはやはり常に反対の意味を
示唆しているところだろうか?
幸せになりたいと思い、毎日寝る前に10分間イメージトレーニング
をして、眠りについて、
ある日忘れてしまったら、それを『一歩後退』と
感じてしまう事もあるのではないだろうか?
ならば、初めから、やらないほうが良かったのでは
ないだろうか?
とまぁ、垂れ流しがひどくなってきたのでこの辺で。
この著作はすごくわかりやすくて、でもやはり、
般若心経の難解さを痛感させられる。
最小の物質を追い求めるが、最近では、
粒子でもあり、波でもある。
そんな見解だそうです。
本書にも示されていますが、
最小の物質はそれ以上割り切れないということになるので、
その物質は面を持たない。
さらに、
その物質同士がくっつくときに
互いの左側と右側をくっつけるとして、
そこに部分が出来てしまう。
部分があると言う事は
全体があり、分割できてしまい、その物質は
最小ではなくなる。
だから『粒子であり、波である』と。
別に仏教とか自己啓発とか、そんなものではなく、
哲学書として読める入門書ではないでしょうか。
現代語訳 般若心経 (ちくま新書 (615))/玄侑 宗久

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