理解が追い付かず、ページが進まない。
馬鹿だからと言って読み捨てるのももったいない位面白い。
でも、まだまだ。
ということで、この本の感想と言うよりも、考えられる事をまとめる。
もしくは
散乱してみます。
初めっから、雑学的な話ですが、般若心経の『般若』と面の般若は
全く別物だったんですね。初めて知りました。
ここで言う『般若』とは真の知恵?とでもいっておけばいいのでしょうか。
まぁ、そのへんもおいおい考えてみましょう。
今回は『私』について。とまるで論ずる題が決まっているかのような
そぶりですが、恐らく脱線します。
あと、間違えます。
衝撃的だったのは『私』という存在の定義の仕方でしょうか。
見たり聞いたり食べたりしている自分がいる。
あれが好きこれが嫌いという自分がいる。
あそこへ行こう、あそこへは行けないを判断する自分がいる。
自分が世界を感受していると思っている。
しかし、そうではない。
見たり聞いたり食べたり、好きになったり、何かを決めたり、
しているのは『私』という私であって、
『私』そのものは自分であるかもしれないけれど、
自分で思っている以上に自分ではない。
(・・・なんだそりゃ。)
全てが等しいという事にしてもいいのかな。
全てが等しい。常に0の状態。
怪我をした。
痛い。
誰かが転んだ。
痛くない。
転んだ自分は転ばない他人よりも不幸かもしれない。
でも、そうじゃない。
痛みは痛みとしてある。
それはそれを感じる感覚器官が人間にはあるのだから。
しかし、痛みを痛みと認識し始めると思っていた以上に
痛くなってしまう事はないだろうか?
そうしてしまったのが『私』である。
本当は大したことない。
でも、注目し、意識し、ある意味期待しだすと、
何をしてても痛みをかんじるようになってしまう。
骨が折れたらそれは日常の事とは言えないので、
私なら泣き叫ぶだろう。
しかし、本当に泣くほど痛いのかというのは疑問だ。
美味しいと感じる食べ物も、
気分が悪ければその味を味わえないし、
美味しいと思い込んでしまっていたら、
本来の味以上に美味しく感じてしまう。
天の邪鬼に『ステーキなんておいしくない』
と言ってしまえば、
最高峰の松坂牛でさえ味が落ちたように感じてしまう。
そんな悪さをする『私』を完全に俯瞰してみよう。
そんな風によめる。
そして、それは痛いとか美味しいとかだけでなく他の事にも言える。
まずはじめに五蘊あり。
色・受・想・行・識。
形があって、それを受信して、それに対しての思いが浮かんで、
どうするか決めて、以上のバックグラウンドを持つようになる。?
って感じでしょうか。
形とか物事をまず、受けない。というところで、
こちら側で強制的に止めてしまったらどうなるでしょうか?
つまり、『五感喪失』という状態に陥った場合、
それは『私』を逃れ『無我』となれるのでしょうか?
もの凄く意識がパッキリしてしまって、『私』の塊になるか?
それとも、意識すら薄くなり、生命力がしぼんでしまうのでしょうか?
明日はその辺をだらだらと考えていきます。
馬鹿だからと言って読み捨てるのももったいない位面白い。
でも、まだまだ。
ということで、この本の感想と言うよりも、考えられる事をまとめる。
もしくは
散乱してみます。
初めっから、雑学的な話ですが、般若心経の『般若』と面の般若は
全く別物だったんですね。初めて知りました。
ここで言う『般若』とは真の知恵?とでもいっておけばいいのでしょうか。
まぁ、そのへんもおいおい考えてみましょう。
今回は『私』について。とまるで論ずる題が決まっているかのような
そぶりですが、恐らく脱線します。
あと、間違えます。
衝撃的だったのは『私』という存在の定義の仕方でしょうか。
見たり聞いたり食べたりしている自分がいる。
あれが好きこれが嫌いという自分がいる。
あそこへ行こう、あそこへは行けないを判断する自分がいる。
自分が世界を感受していると思っている。
しかし、そうではない。
見たり聞いたり食べたり、好きになったり、何かを決めたり、
しているのは『私』という私であって、
『私』そのものは自分であるかもしれないけれど、
自分で思っている以上に自分ではない。
(・・・なんだそりゃ。)
全てが等しいという事にしてもいいのかな。
全てが等しい。常に0の状態。
怪我をした。
痛い。
誰かが転んだ。
痛くない。
転んだ自分は転ばない他人よりも不幸かもしれない。
でも、そうじゃない。
痛みは痛みとしてある。
それはそれを感じる感覚器官が人間にはあるのだから。
しかし、痛みを痛みと認識し始めると思っていた以上に
痛くなってしまう事はないだろうか?
そうしてしまったのが『私』である。
本当は大したことない。
でも、注目し、意識し、ある意味期待しだすと、
何をしてても痛みをかんじるようになってしまう。
骨が折れたらそれは日常の事とは言えないので、
私なら泣き叫ぶだろう。
しかし、本当に泣くほど痛いのかというのは疑問だ。
美味しいと感じる食べ物も、
気分が悪ければその味を味わえないし、
美味しいと思い込んでしまっていたら、
本来の味以上に美味しく感じてしまう。
天の邪鬼に『ステーキなんておいしくない』
と言ってしまえば、
最高峰の松坂牛でさえ味が落ちたように感じてしまう。
そんな悪さをする『私』を完全に俯瞰してみよう。
そんな風によめる。
そして、それは痛いとか美味しいとかだけでなく他の事にも言える。
まずはじめに五蘊あり。
色・受・想・行・識。
形があって、それを受信して、それに対しての思いが浮かんで、
どうするか決めて、以上のバックグラウンドを持つようになる。?
って感じでしょうか。
形とか物事をまず、受けない。というところで、
こちら側で強制的に止めてしまったらどうなるでしょうか?
つまり、『五感喪失』という状態に陥った場合、
それは『私』を逃れ『無我』となれるのでしょうか?
もの凄く意識がパッキリしてしまって、『私』の塊になるか?
それとも、意識すら薄くなり、生命力がしぼんでしまうのでしょうか?
明日はその辺をだらだらと考えていきます。