QEDシリーズはうんちくが面白くて、史跡めぐりに駆り出したくなります。

多分、第一作の北村薫の解説がたまらなく素敵だったから、ここまで読んでこれたのだろう。

でも、忍者のヤツはあまり気が進まない。なんでだろう。

たぶん、主役の二人のやり取りがとても楽しいから。

でも、今回の主人公はその二人をも喰ってしまえるほど、濃い人物。

でも、思ったより出番が少なかったのとうんちくが少なかったような気がする。

こういう偏屈な人物を主人公にしてしまうとなんだか喋らせることすら大変そうだ。

実際、おせっかいな部分はなんとなく型にはめてしまった感が否めませんでした。


すごく面白かった!!

というわけではないけれど、歴史の裏を障子の穴から覗き込むような感覚をサラリと味わえるそんな作品でした。

毒草師 QED Another Story (講談社ノベルス)/高田 崇史

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さぁ~、明日は何を読もうかな。

ちょっと気になったので、『老荘を読む』にします。
老荘を読む (講談社現代新書)/蜂屋 邦夫

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建築というのはとても厳しいもので、空間それ自体の表現と体感が問われるものだと思います。

自分もまだまだまだまだ…勉強中の身ですが、最近、『空』という思想をとらえることを始め、わずかながら、多分人には気づかれないほど微々たるものですがその核心に迫ってきているような気がします。

そもそも、神の社から現代に至る様々な住宅建築ではその意味合いが大きく変わり、それと共に空間それ自体の質が薄っぺらくなってきている気がします。

それを一言で言うならば『自分が心地よいと思うものに囲まれていたい』でしょうか。

目先の、情報操作された感覚に頼って心地よさを簡単に定義してしまう。そんな風潮を感じます。

それはそれでもちろん否定できることではないけれど、それにあいまって、建築家も消費者と同じような目線で建築を作ろうとしてしまっている。

それは結局、建築という存在を建築家自身つかみ切れていないからではないでしょうか?

この日本、建築士はあぶれるほどいるけれど、建築家と言える人物は一体どれほどいるのだろうか?
エコだエコだとあおりたてているものの、新しく建築することをやめた方がよっぽど地球には優しいはずなのにどうしてそれを声に出して言う人がいないのだろうか?

木のぬくもりが好きだと良く聞くけれど、木のぬくもりとは一体なんなのだろうか?それはあくまでも主観も問題ではないのだろうか?

建築家とは常に先を見通し常識を覆し現実と自分と格闘していかなければならない。


そこに至るまでに血反吐をはいてこそ、建築家なのだと思っています。



と、こんな事を書いてしまったのも明日の本、老子と荘子について思いをはせているからでしょう。

有名な言葉『無為自然』。その言葉の本質的な意味とは一体何なのでしょうか?
『let it be』と解釈してしまっても良いのでしょうか?

その感想は明日のお楽しみということで。

おやすみなさい。