今秋、NHKで放映されたドラマ「チャレンジド」。

http://www.nhk.or.jp/dodra/challenged/index.html


 題名にひかれて、生真面目に見た。

 番組HPには今も「感動」「感動」「感動」、の大合唱。

 そうなるんだろうなぁ。

 それを期待して作られたドラマなんだろうなぁ。

 と思って、見ているときにはとても複雑な気持ちになった。


 題材、題名はよいと思う。取り組む姿勢ももちろん。

 だ、けれども。

 安易に「感動」を創らないでもらいたい、という気持ちが強い。

 もちろん、健常者と比べると、ノーマライズされていない現代日本で生きる障害者たちは、常にチャレンジを強いられるので、その一挙手一投足が「感動」するに足るエネルギーをもつ。

 だが。

 チャレンジさせているのは何か、ということをこそ考えてもらいたい。

 チャレンジしている姿に「感動」するのは終わりにしてもらいたい。

 無為なチャレンジをしなくて済む世の中にしなくては……


 番組HPでの「障がい者」という表記についても、思い出したときに書いておこう。

 最近はこの表記が定着しつつある。「しょうがい者」や「障碍者」など、「障」と「害」の漢字の持つマイナスイメージを払しょくしたいのだという。

 これも問題の本質からずれている。

 安易に変えないでもらいたい。

 健常者に対して、障害者が少数派であることに間違いはない。大多数の健常者にとって、障害者と呼ばれるゆえんである「障害」は、やはり障壁であって、日常生活に害をなす。

 いわゆる「障害」が、障壁や害ばかりではないこと、障壁や害がよりよい結果をもたらすこともあること、それはわかる。

 先天的な障害のある方にとっては、健常者から見る障害が、障壁にならない場合もあろう。

 だが問題は、「障害者」に対する健常者の無知と、無知からくる差別なのだから、そこだけを集中的に訴えるべきである。

 その際、もともと悪いイメージの言葉だからやめてほしい、というだけでは、無知な人は無知なままだから、差別はなくならない。

 いわゆる差別語として消えつつある、ツンボ、メクラ、などの言葉。これらは差別を助長するから、という理由で消されているのではないか?言葉は消えたから差別も消えただろうか?


 なぜ障害者が不利益をこうむるのか。このことをこそ考えるべきである。

 そして、どうすれば、みんなが楽しく暮らしていけるのかを。

2009/08/10


 昨日、ドキュメンタリ宣言 で、うじきつよし父子について取り上げていた。

 かなり感銘をうけた。


 職業軍人の父が、戦争当時の記憶、行動を、否定だけではなく肯定もする。あるいは、負の感情(辛さ、空腹など)を明らかにしないことに、うじきは苛立つ。半ば怒鳴るように、問い詰めるように、父に向かっていく。

 その真摯な姿に、見入った。

 これは、単に個人的な父子の問題ではない。そう意識されているからこその、うじきの行動、発言なのだと思う。もちろん、その土台となるのは、あくまでも個人的な父子関係であるが。


 うじきの主張、表現者としてのそれに、強く共感する。

 一方で、父親の生き方、表現の仕方にも、共感する。


 戦争はいけない、絶対にしてはいけないと言っているじゃないか。

 お前は何がいいたいんだ?

 お前は、反戦だというが、ある状況下におかれたり、世の中の流れにあっては、お前も戦争するかもしれん。

 そういうものだ、人間は。

 それをしっかり認識していないと、間違うよ。


 この言葉がすべてだと思う。

 戦争は悪。間違いない。

 だが、当時、軍部に煽られた民衆を責めても、しかたがない。みんな被害者だ。

 もちろん、加害者でもある、ということを忘れてはならないが。

 加害者である面を、面と向かって指摘し、追及しできるのは、やはり親子だからこそ。うじきも、他人には同じことを決してしないだろう。だからこそ、それを自らの使命として課しているのかもしれない。

 辛いことでもあると思う。それを貫こうとする、強い精神力、意志に、敬意を表する。


 うじきの言うように、すべての戦争は、どんなことが理由であろうとも、行ってはいけない。

 同行ディレクターが、うじきを責める気持ちも、わかる。戦争を肯定する立場もわかる。実際に世界は戦争を肯定している。

 だからこそ、表現者は、反戦を唱えなければならない。

 戦争では何も解決しない。暴力に暴力で向かってはいけない。

 暴力をふるわれたらどうするか? ふるわれないようにするしかない。

 抑止力が必要? 暴力と武器以外の、抑止力を持たなくてはいけない。

 もっとも有効な抑止力は、あらゆるものを破滅させる核ではなく、絆だ。あらゆるものたちの、つながり。

 家族が襲われたら、どうするんですか?とディレクターは問う。家族のために戦う、という答えは誤りだ。ついそうしてしまう本能があることを意識しながら、その意識を制御しなくてはならないのだ。

 戦争行為そのものだけではなく、その背景をしっかり探るべきだ。


 だから、戦争の記憶を過去のものにしてはいけない。

 いつも、心に留めて、意識しなければならない。過去の経験を活かさなくては。

 決して流されまい、と。決して戦争に加担するまい、と。

 オトナは笑うかもしれない。この国で米国の軍事力に守られている時点で、今このときも、戦争と無関係とはいえないのだ、と。

 それでも、なお。強く、決意する。


 うじきが行おうとしているのは、記録を残すこと、に尽きる。

 職業軍人として生きた人の、人間としての本音を記録しようとしている。

 ときに荒々しいのは、本音を隠して、本音から逃げようとする父親への苛立ちだろう。たぶん、逃げることを悪と教える、強い父であられただろうから。単に、戦争を肯定するなと責めているのではない。

 逃げるな、と教えたあなたが、今まさに僕から逃げる。そういう気持ちだったのだろうと想像する。

 親子であるという関係に留まるならば、うじきも、よもやこうまでしないだろう。父親を、カッコいい強い軍人のまま死なせただろう。だが彼は表現者としての自分の役割に自覚的なのだ。誰もが逃げる、嫌で辛い役割を引き受けている。

 「じゃぁ、どうしたらいい?」

 その問いに答えられるものはいない。うじき本人も、そしてすべての人も、考え続けるしかない。


 ディレクターのスタンスにも敬意を表する。

 編集後記 を読んで、心が痛んだ。

 同行して、記録を撮る、精神の強さ。それを放送に耐えうるように、たった一時間にまとめる構成力。

 感情をあらわにした己を晒す覚悟。この部分を切ることもできたはず。

 私には、とても真似できない。

 おかげで、さまざまなことを勉強しました。改めて意識しました。

 番組HPに、たくさんの意見が寄せられていて、興味深く読んだ。

 そして、やっぱり、まだまだ戦後なんじゃないか!と、思った。戦争を知らないとか、簡単に言ってはいけない。知らないなら勉強すればいいだけだ。勉強だけで理解したと思うなよ!?とか言わないで。何も知らない、と言い放つことの恐ろしさに気づいて。


 大岡信は、「日本人は毎年8月6日から敗戦記念日までの一週間だけは正気に戻らねばならぬ」、と言った。

 毎年、その言葉を思い出す。

 年末のお笑い番組でNON STYLEを見ていて思い出した。

 NON STYLEは、火事を「72メラメラ」と表現。松岡修三の指導が「1メラメラ」。大火事は100メラメラで、100メラメラは1ボウボウだという。


 単位には、本当に面白いものがある、という話。

 聾学校実習で、理科か何かの研究授業の講評で。

 痛みを表す単位で、「hanage」というものがある、と……

 1hanageは、1cmの鼻毛を1Nで引く時の痛みだという……

 出産時の痛みは2.5~3.2Mhanage(メガハナゲ)……

 SI組立単位、国際的に認められているものらしい。


 そういうことにも目を向ける。

 ものごとの根本を知り、そこからさまざまな世界を見せてあげられるように。

 自分がまず知らなければ、子どもたちに教えることはできない。

 常にそのような学びを続けること。それが教員である、という教え。

 ……だったような。