2月14日投稿の「水の被害」のおしまいに、シャトーと繋がる地下道に触れました。はい。私の住んでる町(人口1500人ちょっとの小さな町で村というべきでしょうね)にはシャトーがあるんです。
そのシャトーにからむ歴史的なお話をこれから少しずつ書こうと思います。
まず、もっと有名なシャトーに繋がる地下道について。
観光しがいのあるシャトー、仏国王フランソワ1世が居住していたアンボワーズの城と、レオナルドダヴィンチにからむ話をしておきたいと思います。
フランスワ1世がダヴィンチに与えた館クロ・リュッセとシャトーが地下道で繋がっていて、国王はたびたびこの地下道を通ってお忍びでダヴィンチに会いに行っていました。
この地下道は現在は埋められていて使えなくなってますが、ほんの数十メートルは進むことができる、れっきとして現存するものです。
敵の襲撃があった時に、お妃や子供たちを秘密の地下道から逃がす、というのは昔から洋の東西を問わずにあったんですね。
レオナルド・ダ・ヴィンチは仏国王フランソワ1世に招かれてイタリアから、ロバの背中に手放しがたく愛着ある絵を積んで千数百キロの道のりをはるばる旅し、フランスのトウールに近いアンボワーズへ来たのでした。一人旅ではなく、助手の画家フランチェスコ・メルジ、とサライSalai が共をしてきました。
このルネッサンスを代表する万能の天才がフランスへ持って来た絵のうち3枚が現在ルーブル美術館に展示してあるわけです。ジョコンダ(モナリザ La Joconde)、洗礼者ヨハネ( Saint Jean-Baptiste )そして聖処女、幼児キリスト、洞窟の聖アンナですね。
クロ・リュッセに落ち着いた当時ダビンチは64歳でしたが、やがて手足が麻痺し始め、余命短く3年後にはこの館で没します。
その3年間にダヴィンチはロモランタン Romorantin にフランソワ1世の母ルイーズ・サヴォワの新たな居城として壮大な城館の設計をしました。
1519年までに基礎工事は終わり一部館の建設が始まりますが、ペストが流行し、やがてダヴィンチ自身が病気で動けなくなり工事は中止されます。今日設計図だけが残っています。また、シャンボール城の二重らせん階段はダヴィンチが設計したものと言われています。
1519年5月2日、ダヴィンチはクロ・リュッセで息を引き取ります。現在ダヴィンチの墓はアンボワーズ城の庭の一廓で街を見下ろす高い城壁にくっつくように建てられた聖ユベール(La chapelle Saint-Hubert 狩りの守護神 )チャペルに祀られています。