サン・ファルジョーの城が現在の姿になったのは グランド・マドモワゼルがフロンドの乱に組してルイ14世から島流しに遭い、この田舎に住んだ1652~1657年のことですから、それより200年以上昔、ジャック・クールが城主になったころは中世の城砦の姿をしていたのですね。
ジャック・クールの伝記は沢山出ていて、拾い読みした程度ですが、このブログにも2012年 8月 7 日に「ジャック・クールの館」と題して記事を投稿していますのでご興味ある方はご一覧ください。
リンクが貼れないので重複になりますが、要点を書きます。
パリから南西に約200km、シェール(cher)県のブルジュ(Bourges, 音は似ているけれどベルギーのブルージュじゃありません)は一時期フランスの首都だったほど重要な街。パリがブルゴーニュ派とアルマニャック派の内戦状態だった時代、フランスの王太子シャルル(後の国王シャルル7世)がベリー公を頼って亡命した街。
ベリー公は文藝愛好家でヨーロッパ中から芸術家を集め保護したメッセナでした。中でも有名なのは下に貼った「祈祷書」ですね。
ジャンヌ・ダルクとジャック・クールは同時代人。ロワール河から北をブルゴーニュと英国が支配していた英仏百年戦争の終盤の時代。
ジャンヌダルクは神のお告げを聴き、シャルル王太子に戴冠式を挙げさせフランスの国威を回復する使命を帯びてシノンの城へ ロレーヌ地方のドムレミ―からボードリクールに護衛され占領地帯を主に夜歩いて辿り着きました。
シノンの城では廷臣たちが田舎娘をからかってやろうと 王太子に家臣の服を着せ、廷臣の一人が玉座に座って迎えますがジャンヌは即座に王太子ではないと見破ってしまう。その後、 王太子と二人きりで他の部屋で面談した後、王太子はジャンヌの申し出が誠実なものと認め鎧と戦旗、一部隊を与えます。
ジャンヌが率いる部隊の戦費をジャック・クールが賄いました。
ジャック・クールは父親の代からブルジュで貨幣の鋳造に携わっていました。後にジャックは地中海貿易に乗り出し、 中東から物産を運んで手広く商業を営みます。しかし、財をなしたのは物産の取引よりも、金と銀とが同価値だった中東へ 銀を持って行き同量の金と交換して持ち帰り莫大な利益をあげたためといわれます。
ブルジュに残るジャック・クールの豪邸内部には、すべて石造りのサウナ、蒸気風呂、温水・冷水風呂を備えたSPA みたいな 豪華な浴場を見学できます。ジャックは、館の完成を見る前に投獄され、ここに住むことはありませんでした。
前回の投稿記事に書かなかったことがひとつあります。それはジャック・クール有罪判決の理由の一つに、フランス一の美女といわれていた シャルルの寵姫アグネス・ソレル毒殺の嫌疑でした。これについては次回に譲ろうと思います。
またジャック・クールは、通貨改鋳を行ってフランスの財政を立て直しました。 北で通用していた金貨は質が悪く、南のフランスで通用していた金貨は質が良かった。 ジャック・クールは質の良い金貨2枚から質の悪い金貨3枚を鋳造し直し、ジャンヌダルクの戦費を賄いました。
ジャンヌもジャックも、フランスの為に献身したのに、ジャンヌは19歳の処女の身で火刑という極刑に処され近年まで魔女扱いでした。金を扱っていたジャックは、つい自分の懐も肥やしたくなり、 懐に入れたかもしれませんがジャックの宮廷での味方だったアグネスを毒殺する動機はなかったと思います。投獄後、脱走に成功してローマへ逃れ、一時期ローマ法王の被護にすがりますが、最後は十字軍に参戦してギリシャの島で没しました。