畑和彦の述懐
この工場へ来たばかりの頃は知らなかったが、しばらく後でアキレス自動車には日本人の取締役がいるという噂を聞いた。もちろんパリの本社勤務だからめったに会う機会はなかったけれど一度だけ、その取り締まりが工場を視察にル・アーヴルまでやって来た時に挨拶を交わし、短い話をさせてもらった。その時にアキレス自動車とその取締役の出向元の日本の大手自動車メーカーが提携計画を検討中と話してくれた。EU単一市場が実現し競争力がないと生き残れない時代に突入するので競合同士が提携し合ってグローバル化を勝ち抜く方策を探っているというのだった。
私の最初の5年間の契約は無事終了し、さらに5年間契約更新をしてくれた。その取締役が話してくれたとおり、アキレスと日本の大手自動車メーカーとの提携が実現し、アキレスに引き抜かれたばかりのボーンという副社長が日本の提携先企業の社長として就任することが決まった。この日本の企業は数千億円の赤字を抱えていて青息吐息、立ち直るには大胆なリストラ、つまり生産性の低い工場を閉鎖し従業員の首切りを断行しなければならず、長年温情主義でやってきた日本の経営者には出来ないところを外人社長が情け容赦なく断行するというのだった。
このボーンという男はレバノン人の両親のもとにブラジルで生まれフランスのエリート養成学校であるグランゼコルのひとつ名にし負うポリテクニックを出た秀才という噂だが、私にはどう見ても強面のマフィアの親分といった風にしか見えない。レバノンという地域は中世の昔から地中海で海賊まがいの商売をやって金儲けには抜け目がなく遠慮会釈のない奴らだ。そんなのが日本の企業の社長に就いてリストラに大鉈を揮うてのだから、首を切られて泣く泣く長年勤めた愛着ある工場を去らねばならない社員たちが沢山でるだろうな、と同情に耐えないほどだ。
どうしてこの二つの会社が提携関係に入ったか? について少々私なりに推察してるところがある。 ふたつともかつては国策会社だったこと。アキレスの創業者はクルマを自分で作ってはレースに熱狂したりするメカいじりがメシより好きという機械屋だ。ルイといってフランスのカペー王朝の歴代国王と同じ名前を付けたところをみても、親の思い入れ程度が伺われようというもの。親はパリ郊外で布地とボタン、糸など裁縫用品を商う商人だった。
世界で初めての内燃機関を積んだ自動車が走ったのは1850年のパリ万博でのことだった。ドイツのダイムラーとフランス人が一緒に開発したエンジンを積んだ走った。それから半世紀弱経った1898年に21歳のルイは自動車工場を立ち上げた。優秀というかクルマに懸ける情熱がそうさせたんだろうと思う。最初はもちろん一台一台手作りで作っていた。値段は高く金持ちしか乗れない高級な乗り物が自動車だった。ルイはパリ~ボルドーなど長距離ロードレースに自分でパイロットしながらなんども出場している。ルイは3段変速ギヤボックスを発明開発しそれで財産を築き工場と会社を大きくしたんだね。
T型フォード ↑
転機が訪れたのは1908年にアメリカでヘンリー・フォードがT型フォードの生産を開始したこと。フォードは当時「科学的労働管理」を発表したフレデリック・テイラーの思想に共鳴し、その考えを 自動車の生産ラインに適用した流れ作業による大量生産によって自動車を金持ちの乗り物から大衆が買うことのできる乗り物に変えてみせる革命を実現した。これは「フォード・テイラー方式」と
呼ばれ現代の工業生産の基礎になっていて自動車に限らずあらゆる工業製品の生産方式となっている。
フォードの噂を聞いたルイは早速アメリカに渡りレッドリヴァーのフォード工場を実地に見学した。 一目ぼれってのはなにも男と女の関係だけじゃなくルイがフォードのこの工場に寄せた感激と言うか盲目的な愛にも言える言葉だと思う。なにがなんでも、フォードの流れ作業生産方式をフランスの俺の工場でも実現するんだ、と帰るなり部下に命じた。ルイは家父長的な独裁的な経営者として最後まで君臨し続けた。が、この時は、一目ぼれがルイを盲目にさせていて、流れ作業方式を実行するに不可欠な部品や工具の整備、いわゆるロジステイックを無視しがむしゃらに分業による流れ作業をやり工員の給与も能率給としたため、ほとんどすべての工員から反発を食らい、45日間という歴史的なストライキに発展した。1910年代の第一次世界大戦勃発寸前の頃の出来事だ。
当時のルイの工場にはヘミングウエイというアメリカの作家と同じ名前の英国人のコンサルタントがいてルイにはちゃんとテーラー・フォード方式を実行するにはまずロジステイックをライン周辺の部品の置き方や工具の整理整頓をした上でなければ成り立たないとアドバイスをしたのに頑固で思い込んだら他人の言う事に耳を貸さないルイは工場をロックアウトし工員をひとりひとり呼び出して無理やり流れ作業を実行させようとした。フォードの工場を視たのに表の見え易いとこだけ見てその裏にある土台となってるところを見逃したルイはやっぱり軽薄な技術屋と言わねばならない。ヘミングウエイの言う事に素朴に耳を傾ければ普通の技術者ならすぐにわかる単純な事なのに一目ぼれで眼暗になってたんだね。
第一次大戦でも自動車が活躍してお蔭でルイはフランスで屈指の実業家となった。乗用車の外に戦車も造るようになったんだね。1940年にナチス・ドイツがポーランドついでベルギーに侵攻するとベルギーの同盟国だったフランスは英国と組んでドイツに宣戦布告した。ドイツの機甲部隊はマジノ線を迂回しアルデンヌの森の樹木を薙ぎ倒してフランスに侵攻したんだ。世界最強と謳われていたフランス陸軍と英国の連合部隊はあっという間にドイツ軍に挟み撃ちに遇いダンケルクから命からがら逃げ出したのだった。パリからトウール、ボルドーと逃げて周りヴィシーに落ち着いたフランス 政府は第一次大戦の英雄ペタン元帥に全権を委譲し議会制民主主義を放棄してしまった。ペタン元帥はナチス・ドイツと休戦協定を結ぶと発表。事実上の敗戦を認め、ヒトラーに協力する路線に踏み出した。ユダヤ人狩りをフランス警察の手で実行し、ユダヤ人の職業を禁止、財産を剥奪する暴威をやってのけた。ドイツとの協力にルイは積極的だった。こともあろうにフランスのルイの工場で造った戦車をドイツに売ってたんだね。
戦後、ルイは対独協力の嫌疑を受けパリ西郊のフレーヌの監獄に収監された。裁判が始まる前、ルイは獄中で変死してしまう。明らかな証拠は挙がっていないが、推測に寄りルイは獄卒に警棒で頭を殴られそれが元で死亡した、とされている。ルイの会社は国営化された。この会社のトップには不思議というか数人の悲劇的な最期を遂げた人物が多い。
(つづく)
