今日は義理の両親の結婚記念日。
普段であれば家族皆で食事にいったり、もしくは自宅で盛大にお祝いをしているはずだった。
はずだったというのは、、、
義理父の容態が急変し、救急で運ばれたからである。
あんなに元気で生命力に満ち溢れていた人が、日に日に目に見えるように老いて弱くなって行く姿を目の当たりにしなくてはいけないのはなんとも痛々しいこと。
何も出来ない自分にもどかしさすら感じる。
どうしようもないやるせない思いが、私に筆を走らせる。
文章に私の思いを込める。
怒り、悲しみ、絶望、そのすべてを。
そうなのだ。
結婚後、義理の両親の結婚記念日が追加され、私の中では暗雲の中に立ちこめた光のようにすら感じていたのではあるが、本来この週は喪に服す週。
広島の原爆記念日、長崎の日、そして忘れもしない日航機墜落事故の日。
1週間のうちに、6日、9日、12日と3日間も喪に服す日がやってくる。
本当に居たたまれない週なのだ。
遠い記憶を辿る。
幼いながらも自分と同世代の彼女が、テレビで証言していたのを覚えている。
彼女の名は川上慶子さんといった。
自分とそんなに歳が変わらないのに、随分しっかりとしてる。
そんな風に思いながら、ぼんやりとブラウン管を眺めていたのだ。
「あのね、北海道の帰りに千歳から東京まで飛行機で行ってね、東京から大阪まで飛行機で、大阪にいるおばちゃんのとこに寄るっていって、それで乗ったの。」
病院のベットの上で語っていた慶子さん。
その11年後、私は同会社に入社する。
そしてこの時期になると、毎年のようにビデオ学習の日が設けられていたのだった。
フライトの帰りに、とある部屋に立ち寄りビデオを見る。
内容はJL123便に関するものだ。
遺族の方々のその後や追悼登山の様子などもあった。
そしてそのビデオを涙しながら見終える度に、11年前に見たテレビ画面の彼女にふと思いを寄せるのだった。
当時は断片的にしか分からなかった事実が、ひとつひとつ、くっきりと私の中に像となって焼き付いていく。
墜落当初、川上さんがお父さんや妹さんと話しをしていたこと。
身体は動かせなかったが、励まし合っていたこと。
突如お父さんの声が途切れてしまったこと。
そして妹さんの声も。
一機のヘリコプターの通りかかる音で、ふと目が覚めたこと。
助けを求めたかったこと。
ふと人の気配がして、「生きている人は手や足を動かして」と言われ、足をバタバタさせたこと。
すべては墜落から救出されるまでの16時間という長い時間の出来事。
社員だったから、だけではない。
ひとりの人間として、自分と同世代の女の子が、このような人生と遭遇したというその事実と対面したこと。
そしてその彼女は、今もその事実と共に現在を生き続けているということ。
6日、9日、12日。
犠牲となってしまった沢山の命に、心からのご冥福をお祈り致します。
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