日本より帰着してからというもの、常に偏頭痛に悩まされている。
いわゆる時差である。
イタリアから日本入国時は感じないが、逆は甚だしく身体を酷使しているらしい。
昨夜も気が付いたら、パジャマに着替える事なく寝入っていた。


”今日こそは海へ行く”

早朝より夫と娘に叩き起こされる。
イタリアのヴァカンスといえば、海、うみ、ウミ。
マーレ無くしてヴァカンスは語れない。

”Tsugumi の白さは病人並み。少しは陽の光も浴びないと”

日本で顔のシミ取りをし、陽の光を浴びてはいけないと言われた事はこの際二の次に。( 幸いにも施術後、ひと月以上は経過している。)

ビタミンDを再生させるべく、実近の海辺へ向かう。
幸いにして、車で5分の至近距離だ。

義理の両親とのランチが待っているからほんの数時間ではあるが、私にはその方が好都合でもある。

今日のお供は、遠藤周作。

娘と夫が、カヌーもどきで水と戯れる中、私は静かにサンベットに横たわり、脚だけは小麦色を目指すべく陽の光の元へと曝け出す。
サングラス他で顔はカバーしつつ、本を手にする。
至福の時。 

私は作家ではないが、作家の彼と同じ思いなのは、

モノを書くという行為により、自分に加えられた不幸や苦しみも客観的にみれるようになったこと。

そもそも私は、他人から賛同を得たくてブログを書き出した訳でもなければ、美辞麗句を並べたくて書き始めた訳でもない。

そのようなコトを求めている方は、きっと今すぐにも私の読者をキャンセルしているであろう。

私がモノを書くことが好きなのは、

自分の内面と向き合えるから。

我が人生を振り返ってみても、どん底にいた時は常に部屋に篭って文字を綴っていた。
それが半年続くこともあった。

フライト先でも、一歩も外に出ず、ルームサービスと共に卓に向かっていたことも。

自分のモヤモヤとした気持ちや思いを、第三者的に文章化することにより、自分という人間を客観視出来る。

そんなことにある日、ふと気が付いたのだった。
例えそれが自己満足に過ぎなかったとしても、私に成した意義は大きかった。

私にとっては、料理をすることも旅をすることも、自身の内面と向き合うための要素のひとつ、最終的にはそうも思えるのである。



遠藤周作より

私の好きな文言あれこれ

夜というのが何のためにあるのだろうかと考えることがある。眠りというのが何のためにあるのだろうかと思うことがある。夜や眠りによって区分される今日と明日とのちがいが何のためにあるのだろうかと反省することがある。
 だが明日という今日が違ってあればこそ、我々、生きる上で随分、助かっているようだ。今日起こったいやなこと、不愉快だったこと、後悔の種になったことが、夜と眠りとの時間のくぎりのおかげで、どうにか鎮まり、やりなおしの希望がわいてくることがよくあるものだ。
                                   〜勇気のある言葉〜


本当の大人というのは、自分のすること、なすこと、必ずしも正しくないということを身にしみて知っている存在である。そして大人でない者はその反対なのである。大人と大人でない者との違いにこれほど明瞭な定義はない。赤ん坊をみたまえ。赤ん坊ほど自己主張をして聞きわけのないものはないからだ。
                                 〜勇気のある言葉〜



「わたしにはあの人の心がわかる」と我々は軽々しくそう思い、他人を自らの浅はかな眼で規定しようとする。しかし一人の人間に、もう一人の人間の心の底が本当にわかるのだろうか。長年つきそった夫婦でさえ、ある時、ある時間、相手の心を計りかね、相手の中に自分の見知らぬ別の男、別の女を見て愕然とすることがある。
 だからこそ、我々は人間にたいして傲岸になってはならぬと思う。人間がわかる、他人がわかると軽薄に思いこむべきではないと思う。むしろ、人間の心の深さ、心の深遠に脱帽すべきである。
 他人がわかると思い、その人を軽々しく裁いたり、罰したりできる者こそ、「人間を知る」地点からもっとも遠い。 
                              〜お茶をのみながら〜



人間の心は、まるで深い深い海のようなものでしてね。表面は波がたち、陽があたっていますが、そのずっと底は真暗で沈黙しとるんです。しかし、ただ沈黙してるんじゃない。表面では想像もできなかったような意外が秘密や謎が、その心という暗い海の底にかくれてまして、、、
                                        〜闇のよぶ声〜


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