朝食を済ませた父が、引き出しを開けたり閉めたり部屋の中をうろうろしていました。
「何かお探しですか?」と声を掛けると、父は言いました。
「今日は何か大事な用事があったはずなんだけど、思い出せない」
今日は入院中の母とZoomで面会する日なので、予定を書いたカレンダーを見せながらこのことではないかと、これは大事な用事だと言ってみました。
しかし父は違うと言います。
では、床屋ではないかと。
父は今朝、床屋に行かなくてはと言っていたからです。先週から床屋床屋言ってるし。
しかし、父は違うと言います。
「お父さんの大事な用事は、わたしが代わりに覚えているよ。だから大丈夫だよ」
と言ったのですが、父はこう答えました。
「俺の個人的な用事で、あんたにも誰にも言っていないことなんだ。だから、自分で思い出さなくちゃいけないんだ」
本当に何か用事があるわけではなくて「何かを忘れている」という欠落感から来る不安なのでしょう。
「少し休んだら思い出すんじゃない?」
と言うと、父はそうかなと言ってこたつで横になる用意を始めました。
こたつに入ってからも思い出せない不安を口にします。
「お父さん。相手があることで大事な用事なら、お父さんが忘れていても向こうから言ってくるんじゃない?」
と、試しに言ってみました。
すると、
「そうだな!」
と納得しました。
たぶん、考えるのに疲れちゃってもう休みたかったから楽になれる提案に乗っかったのでしょう。
「果報は寝て待てですよ、お父さん」
と言うと、そうだそうだと言って気持ちよく眠りについたのでした。