先日、元ビリギャルの小林さやかちゃんのクラウドファンディングのリターンで、特別授業を行いました。
その中で、ある中学生の女の子が、自分の夢として「坪田塾の講師になること」と言ってくれました。
これは僕たちにとってとても意義深いことです。

というのも、大人にとって子どもへの教育で一番大事なのは、

「憧れられる存在」

に自分自身がなることだと思うからです。


子どもたちにとって、成人するまでに出会う大人はそう多くありません。

「親・先生・店長・先輩」

この4種類にしか出会わないという人もいます。


「大人になりたくない」「社会に出たくない」


もし、自分の出会う大人たちがキラキラ輝いていて、人生を楽しんでいたら、きっと

「早く大人になりたい」「社会人になりたい」

となるはずだと思うのです。


そういう意味では、何かしらの形で、子どもを勇気づけるとかではなく、自分自身が楽しく生きるということが大事なんじゃないでしょうか。


で、最近、社員採用の「面接」をさせていただく機会が多いのですが、その中で多くの人が

「今の教育を変えたい」とか「今の世の中を変えたい」と仰います。


そこで、「どこが問題で、何をどう変えたいのですか? さらに言えば、いつまでにどういう手段を使って変えようと思いますか?」

と聞くと、多くの人が口をつぐみます。


つまり、漠然と、「なんか違う」という「感覚」はあって、それを変えたいという強い欲求はあるけれど、それが何かは分からないし、どうしていいかもわからないということです。

なので、なんとなくその答えを知ってそうな人の元で働きたい、そういうことなのかなと感じています。

 

実をいうとこの感覚というのは「子どもたち」も同じなんです。


なんとなく今の自分を変えたいし、環境を変えたい。(成績を上げたいというのは、その感覚の一部)

でも、それによってどうなりたいのかはわからない、何のためにそうしたいのかもわからない。

とはいえ、漠然とした変身願望はある。

だから、志望校とか言われてもよく分からないし、じゃあ、仮にそこに行ってもどうしたいかわからない。

「困ってる人を助けたい」と目をキラキラ輝かせている子でも、じゃあ、困ってる人ってどういう人なのか、何人どこにいるのか、どうやって助けるのか、いつまでに?

ということまで明確にしている子はいません。

逆に言えば、「そこさえ明確にすれば」ほとんどのことは達成可能です。


というか、世の中のほとんどのことは、「目的の明確化」と「課題の色付け」と「方法論の研究」と「モチベーション維持」と「仲間の結成」この5つで達成可能です。


できていないことは、この5つのどれかが足りない(そしてほとんどの場合、全部足りない)のです。


そして、成功しているケースも問題になったケースも、「属人的なもの」として処理しがちなのです。


例えば、「さやかちゃんは元々頭が良かったんでしょう?(個人の元々の能力=属人的なもの)」「坪田先生に出会わなかったらどうなってた?カリスマ講師と出会ったから変われたんでしょう?(個人の元々の能力=属人的なもの)」

こういったこともそうですし、

 

他にも、

「金正恩が!」「トランプが!」「安倍が!」といったこともそう。


何か、問題を常に属人的なことに考えがちです。

 

ノーベル賞受賞者も、殺人犯も、彼らの個人的な能力や性質、特殊な環境などのせいでそうなったのであり、賞賛したり批判したりします。

 

僕は「ここを一番変えたほうが良い」と思うのです。

 

特に「失敗」に対しては、個人を圧倒的に叩きがちです。


不倫だってそうだし、ミサイルだってそうだし、テロだって、先生に対する暴行だって、LGBTのキャラクターを時代錯誤的に出演させたことだってそう。

 

確かに「個人」も悪いのでしょう。でも、そこを「属人的な問題」として処理して批判し、溜飲を下げることを繰り返しても、
「何も”自分は”よくならない」んじゃないでしょうか。


つまり、

「あの生徒があほだったから、志望校に合格できなかった。あれだけちゃんと指導してあげたのに」

「あの生徒はひきこもりで、学校に来ない」

「あそこの家庭は特殊で、親がモンペアだから子どももああで、だから全然いうことを聞かない」

「うちの子は全然素直じゃない! こっちは一所懸命やってるのに!」

「あの糞ガキは先生をけった! あんなのは許されない!」

「議員のくせにフリンした!」


全部同じです。


そんなことを言っても「自分の人生」に変化はありません。


「たまったストレス」は解消されるかもしれませんが、それは「喫煙」と似ていて、

たばこのせいで神経がおかしくなり、ストレスがたまっているのに、それを「吸う」ことでストレスがなくなっているように感じる(しかし、それは非喫煙者がたばこを吸わないでいる状態と同じ)のと

とても似ています。

 


なので、何かしらの結果を「属人的なもの」におくのではなく、

そこに至った背景やシステム、どういう手段を用いればよりよくなるのか?

を考えたほうが良いと思うのです。

 

例として、

先生を蹴って逮捕された生徒さんを挙げます。


当たり前ですが、この生徒さんが蹴った。

この時点で「暴行」であり、いけないことです。

それはよく分かります。


で、「”この生徒が”特殊でひどい奴だったから」と血祭りに上げるのではなく、


そこに至った背景やシステム、どういう手段を用いればよりよくなるのか?を考えましょうということです。

 

これまでの日本では、体育会系の人は、

「そんな奴は殴ったらいい」とか、「親の教育が悪い」とか、「体罰がだめだという風潮や」とか言います。


でも、それは本当に「より良くなる」と言えるのでしょうか。


暴力で威圧したり、親を批判したり、たたいて矯正すること、これを受容する背景こそが、


北朝鮮・アメリカ・ロシア・中国などの「核開発競争」につながるのではないですか?

 

あいつは悪い奴だから、「叩かないとわからない。だから、より強い叩く道具を作ろう」という発想です。

 

一言言っていいですか?

 

めっちゃ頭悪くないです? それ。

 

 

そんな人がこういうことも言います。


「戦争はよくない。平和が大事。(でも相手が言うことを聞かなければ暴力でコントロールしろ)」と。

 

どんだけダブルスタンダードなんだと。

 

いや、僕は「話し合え」とか言っているわけじゃないんです。

 

そもそも「そんな状態にしてしまっている背景」を考え直そうよってことなんです。

 

つまり、今回の生徒さんが先生を蹴ったのって、


「生徒がタブレットで動画を見ていたのを先生が取り上げた」のが発端だそうです。


そもそも「取り上げ方」の研修はされていたのでしょうか?(十分教育現場で想定される場面です)

そもそも「その先生の授業」は面白いものだったのでしょうか?(良い授業がなされているかの品質管理はされているのでしょうか?)

そもそも「生徒が暴行してくる場面でどう対処するか」の研修はされていたのでしょうか?(これも十分現場で想定される場面です)

そもそも「クラスをコントロールできていない状態を相談する体制はあるのでしょうか?」(新人の先生が一人で40人をマネジメントできるはずもありません)

そもそも「いわゆる問題行動を起こす生徒さんの親御さんを指導する(行政の指導も含め)法律は?」(この問題は10年以上前からあります)

 

実際、どれも解決できることだと思うんです。


そもそも「教育学部」での教育や「教員免許」の試験の段階で上記のことを学ばせればよいだけだと思うんです。
(現状は、教科の知識と面接、2週間程度の実習で免許を持てばその時点で、一国一城の主である「先生」になる)


つまり、「先生」の育成システムに上記のことを組み込めば、


「面白くない授業」や「生徒のマネジメントができない」という問題がずいぶん減るのでは?と考えます。

 

もちろん、だからといって「暴行が正当化」されるわけありませんから、絶対だめです。


でも、これを「個人の異常性」を批判したりするのはちょっと違うし、そういう「風潮」や「思考方法」を変えていくことが「真の教育改革」なのではないかと思いました。


そして僕らの仕事は、「坪田塾の講師になりたい」と思ってくれる子たちをもっともっと増やすことだし、上記のことにつながると考えています。
(実際、卒塾生が、うちの会社に入りたいと言ってくれることがとても増えているので、できていると少しだけ自信になっています)


お互い、それぞれの立場で頑張りましょうね!