坪田塾顧問の本間正人先生が、
 
「Teaching」と「Coaching」について説明を何度かしてくださいっていました。
 
で、僕はコーチングをやっているそうです。
 
 
僕自身は、「コーチング」を習ったわけではないので、「僕はコーチングをやっています」と自信を持って言えるわけではないのですが、コーチングの第一人者がそう言ってくださっているので、そうなのでしょう。
 
そして、本間先生の理論と実践を見ていても、「そうそう!ほんとそれ!」と思うことが多々ありますし、勉強になることだらけですから、「これが目指す頂だな」と思うのです。
 
 
 
 
坪田塾では、講師研修で最初に伝えることがあります。
 
それは、僕らがやるのは、「教えない、支える指導」だと。
 
「教える」のではなく、「支える」ことであり、「指導」であると。
 
 
正直言うと、僕は「教育」という言葉があまり好きではありません。(もちろん、便宜上使うことは多々あるのですけど)。
 
やはり適切なのは「教育」より「共育」なのでは?と思うのです。
指導する立場にある人も、新人さんも、一緒に育っているからです。
 
なんとなく、「教育する」とか「教える」って、ちょっと傲慢なんじゃない?と思っちゃうんですね。
 
むしろ、子どもや若い人が「自ら学ぼうとする意欲を引き出し」、途中で難しくて諦めそうになったり心が折れたりしそうな時に、その「志(心が指している方向)を支える」のが僕たちの仕事だと。
 
とはいえ、中高生で塾に来る子達って、もう既に「散々叩かれている」状態なんですよね。自ら学ぼうとする状態が「自然」であると思うのですが、それこそ「やる気が全くないので!!!!どうにかしてください!!!!!家で全然やらないんです!!!!!」みたいな感じの環境にずーっといるから、もう辟易している・・・・・・という。
 
ここで、「親に変な希望を見せないでください。これ以上うるさくなったらかなわない」みたいな、若干斜に構えている子もいます。
 
もっと言うと、「学習指導」を受けるために塾に通っているはずですし、僕らもそれのプロなのですが、根本的に、「いや、それ、生活指導ですよね」ということの方が多い。
 
本来的には、「生活指導」は親御さんの役割のはずです。
 
「家で全然やらないんです!」とおっしゃる方もいますが、僕らが行うのは、「塾での指導」ですから、当然ですけど、「家での指導は親御さんのお仕事」なのです。
 
これは、学校でもそうです。
 
学校での指導が学校の先生たちの役割。
 
当たり前のはずなんですが、意外とその役割分担を履き違えている方は多いように思います。
 
「(16歳の息子が)朝全然起きないんです!どうしたらいいでしょう?」
 
みたいな相談を受けることもあるのですが、それは完全に生活指導です。
 
「私の言うことを全然聞かないんです。だから、先生が(私の考えを)伝えて、その通りにやらせてください!」
 
みたいなこともめちゃくちゃ言われます。
 
でも、これはもうちゃんちゃらおかしな話なのです。
 
 
「お母さん、僕らが指導するのは5教科の指導です。できれば、一刻も早くこの電話を切って、その指導をしたいのですが・・・・・・」
 
ということも過去に5万回ぐらいありました。(もちろん、そんなことは言えないですけど(笑))
 
 
あまりにも毎日のように家庭の事情を話してこられる方がいらっしゃって、挙げ句の果てには夫婦関係に話やら、義理の母との関係の話やら、その話を聞くことを毎日求められ、さすがにこれは厳しいと思ってお伝えすると、「こう言うことも含めて、”教育でしょう?”だって、先生じゃないですか」みたいなことを言われたこともあります。
 
もちろん、体育の先生に数学の質問はしないでしょう
 
同じ「教育」に関わる人だからといって、なんでも役割を求めるのは明らかにおかしいわけです。
 
では、なぜそういうことが起きるかというと、
 
単純に、「教育手法に関する知識がない(足りない)」「相談する相手もいない」ということなんだと思います。
 
 
よく、「うちは兄弟2人いて、お兄ちゃんの方は本当に手もかからなくて、めっちゃいい子で、頭も良くて、一橋に行ったんです。でも、この子は、同じ血を引いているし同じ環境で、同じように育てたのに、全然勉強はしないし、言うことは聞かないし!!!!もうほんと、病院に連れて行った方がいいんじゃないかと思ってるぐらいなんです!」
 
なんておっしゃる方もいらっしゃいますが、
 
人なんてそれぞれ違うわけですから、「同じように育てた」のに「育ち方が違う」なんて当たり前のことに文句を言うのはおかしいのです。
 
それはまるで、「全ての扉を”押して”いるのに、開かない扉があるんです!」と言っているようなものです。
 
そりゃ、引いて開く扉もあるでしょう、スライドして開く扉もあるでしょう。
 
そこを理解していただくために書いたのがこの「人間は9タイプ」という本なのです。

 

 

 
ちなみに、大変好評ですので、年末にはこの本の「ビジネス版」も出させていただきます。
 

 

 

 

何が言いたいかというと、

 

結局、みんな「共育(教育)」なり、「指導」なりの根本的な知識などを勉強するわけじゃなく、そのまま「親」になり「上司」になるので、自分がされたように育てるし、なんとなく言われていることを真に受けて育てます。

 

 

 

 
まさにこの本のように、「育てたように子は育ち」、そしてその子が親になって「育てられたように子を育てる」ので、ちょっと自分と個性が違ったりすると、もう全然うまくいかなくなっちゃうのでは?と思います。
 
 
つまり、「知識不足」のまま指導する立場になる。
 
そうするとどうなるかというと、
 
先日、あるプロスポーツの運営をやっている方に聞いた話なんですが、
 
プロスポーツ選手が「指導者」になって、指導をすると、
 
言葉が出てこない(語彙力がない)ので、
 
「オイッッ!!!!!!」
 
という一言で、「すべてを表そう」とする人が多いそうです。
 
 
だから、その指導を受ける選手はどうしていいかわからなくなると。
 
 
 
これは家庭の教育でも、あるいは学校や塾でも、会社でも同じことが言えます。
 
 
「見て学べ」とか、「なんでわからないの?」とか、そういうのは、根本的に言えば指導者側の力量不足に起因します。
 
 
そして、その「知識不足」の他に決定的に重要なのが、「核家族」なんじゃないかと思います。
 
 
先日、2歳の娘と愛犬(マル)とで散歩に出かけました。
 
娘は、「まるちゃんモツー!」と、自分がリードを握るのだと言って離しません。
 
 
ま、それはいいんですが、二人とも「何かの意思」に吸い寄せられるようにあっちにフラフラ、こっちにフラフラしまして、一向に進みません。
 
娘としても、自分が行きたいところにマルがいかないので、「もー!!!」と言いながらも立ち止まったり歩いたりしています。
 
僕は、いつもは自分のことしか考えていないんじゃないかと思える、脊髄反射が全てのような姿しか見ないのですが、「自分より小さい存在の歩みに合わせて歩く娘の姿」に少し涙しそうになったのですが、
 
5分もしたら「抱っこ〜!」と僕に抱っこをせがみます。
 
 
「はいはい(笑)」と思いつつ、彼女を抱っこしながら、マルの散歩をしていて、
 
「まるちゃん、可愛いね〜(ちなみに、僕が娘に話すときには全て英語です)」というと、
 
娘から一切なんの反応もないので、「あれ?」と思ったら、
 
なんと、寝てやがりました
 
 
今の時間に寝たら、明らかに夜寝る時間がずれる!
 
と思いまして、
 
とりあえず、娘を降ろし、「歩こう。もうちょっとだから」と促しました。
 
 
 
僕の足にまとわりつきながら「抱っこ〜!抱っこ〜」とせがむ娘。
 
 
いやいや、と言って、なだめすかしながら歩かせる僕。
 
 
そして、フラフラと茂みの中に行こうとする犬。
 
 
完全なるカオス。
 
 
 
しまった、僕だけで来るんじゃなかったと思いつつも、
 
まぁ、半ば強引に歩を進めます。
 

すると、