みなさんお久しぶりです。

坪田信貴です。


ブログの更新はちょっとご無沙汰なのですが、

その分、長文を書こうと思います。


最近のこととこれからのこと。


まず、今週はいくつかメディアにでます。

11/7(月)  ゴゴスマ(CBC/TBS)
11/8(火)  上泉雄一のええなぁ(MBSラジオ)
11/12(土) 助けて!きわめびと(NHK総合)
11/12(土) ナイツのちゃきちゃき大放送(TBSラジオ)


あと、11/12は、ついに坪田塾東京校の入塾説明会です。(入塾説明会のお申し込みはこちら


先週、11/5(土)には文化放送の「中島信也の土曜の穴」という番組に出演させていただくために東京に行き、その後名古屋に戻って、友人の通夜に参列し、11/6(日)にまた東京に行って今度は株式会社明治さん主催のイベントに登壇しました。1日に3セミナー(しかも連続)の経験はなかなか良い経験でしたし、R-1もいっぱい飲めて、良かったです(^^)

毎週、土日はそんな感じで、全国各地を回らさせてもらってます。

「ビリギャル」を出版したのが3年前ですからね、そう考えると、まだ飽きもせず、呼んでもらえるのはありがたい話です。とはいえ、最近は、拙著「人間は9タイプ」関連の話もたくさんさせて頂く機会に恵まれてるのですが。


とはいえ、全国各地、どこにいっても「子育てに関する、あるいは学習に関する同じような質問」が来るので、いろんな意味で全然定着していないし問題解決には至っていません。だから、僕はどれだけでもジプシーさせてもらうし、半年に一回ぐらいは全国放送に出演させてもらいつつ、主張をして行きたいと考えています。

で、最近、僕がとても衝撃を受け、そのダメージからは全く抜けきれていないのが僕の友人の他界。



何度か自分の書いた記事を読みながら、泣くというある種のルーティンを繰り返しつつ、外せない予定がたくさん入っている状態というのは、(通夜には参列したとはいえ)友人の葬儀にすら出られないのかと考えさせられるし、そこで凹んではいられず、数時間後の仕事を前向きに全力投球するのが「社会人」なんだなーと気付かされました。

これが、「近い親族の葬儀」なら、世間的にも、それは仕方ないとなっても、「友人の葬儀のため」キャンセルというのはなかなか理解を得られにくいですよね。

結局、「生きる」というのは、連続的なイベントに立ち止まらずに歩いていく行為ですから、それがポジティブなことであれ、ネガティヴなことであれ、あまり一喜一憂せずに歩くのが良いのでしょうけれど、やはり身近な人の「死」は、なかなか整理できるものではありません。

まさに「悔い」や「後悔」ばかりが脳裏をかすめるのです。(ああ、もっと彼のためにできたことあるよなーって)

北斗の拳の有名な言葉で、「我が生涯に一片の悔いなし」なんていうのがありますが、そもそも、悔いが本当になければ、そんな言葉出てこないと思うんですよね。死ぬ間際に「悔い」というタームを浮かべている時点で、何かしら思い当たるものがあり、それを打ち消すために言葉として発していたのではないかと考えられます。

「あー、俺の人生、超楽しかったなー」なら、なんか死ぬ間際の思考がバラ色感ありますけどね。

あと、例えば、自分が明日他界するとした時に、やはり遺される娘、妻、母、妹、親族、社員、仲間はどうなるのかなんて、考えても仕方ないことを考えてしまいます。

自分の未来において、100パーセント起こることが「肉体の死」ですからね。(個人的には、その人の記憶が、何らかの形で世に残っている限り、それは生きているのと同義だとは信じていますが)そこをしっかり受け入れた上で、今生の選択をしたいものです。

で、そういう意味では、他人から何と言われようが、どう思われようが、自分の人生の船長は自分ですから。オールは渡さずに、仲間と共に進んで生きたいと改めて強く決意しました。

そこで、改めて僕の夢を公言します。


僕の夢は「世界史の教科書に載ること」です。

しかも世界中の国々、あるいは地域の世界史の教科書にです。

載り方にはこだわりがあって、僕が何か偉大なことを成し遂げて載るというのではなく、僕の教え子たちや強く影響を受けた人々が、様々な分野で世界史の教科書に載るような人物になり、後の自伝や伝記に「中学の時に出会った坪田信貴との出会いが…」とか「高校の時に知った坪田先生が…」とか、「坪田塾の塾生として、○○先生に指導してもらったことで全てははじまった…」とか、書かれることで、後の歴史家たちから再評価されて、「なに?この坪田って?」となって、様々な検証がされ、喧々諤々の議論が世界各地で繰り広げられるという、そういう載り方が良いのです。

で、生きている間に具体的に何をしたいのかというと、

大きく分けると3つほどあります。

1つ目、教育のリデザインです。
2つ目、サッカークラブ経営です。
3つ目、雇用の拡大です。


1つ目の、教育のリデザインというのは、要するに、1人の人間が現代社会で成人として自立するために、果たして今の教育システムが効率的なのか、いや、そもそも機能しているのか?に疑問を持っていて、新しく定義し直して、デザインしたものを作る時期にあるんじゃないか?と考えているのです。

簡単にいうと、「5教科の勉強ってそんなに時間と金と労力をかけてする必要なくない? そこをデザインしなおしたら、もっと人生が楽しくなって、社会も良くなるのでは?」ということです。で、それをどうすれば良いのかを人生をかけて見つけて、ある種マニュアル化、システム化したいのです。

要は、「こういう幼少期からの教育を受ければ、圧倒的に人間としても成長し、仲間もファンも増えるし、金も稼げるし、社会にも貢献するし、幸せになるよね」というものをちゃんとシステムにしたいんです。

これはやっぱり、会社経営をし始めて、改めて思うんですよね。

社員の採用ってめちゃくちゃ大事だし、それって、当然これまでその人がどういう教育を受けてきたかが全て。そして、今後どんな教育をすることでさらに成長するのか、それによって、会社の未来は決まっているって。

そして、これはマクロでもミクロ同じはずなんです。


国だろうが家族だろうが。何かしらの集団において、それを構成する「人」が、これまでどんな教育を受けてきたか、そこじゃないですか。


で、果たしてね、

小学校6年間、中学校3年間の「カリキュラム」ってあれでいいんですかね。

そもそも、なんで、「年数が決まって」るんですかね。

人によって、何かを習得する時間って、早かったり遅かったりするのは当たり前のはずです。(あと、得意なことや苦手なこと、興味があることだって、本質的に資質があることだって違うはず。そして、それは、「ダイエットをするためには、食事量を減らして運動量を増やす」という当たり前のことを誰もが知っているにもかかわらず、多くの人が実行せずに、その時々で小手先の手法を変えようとすることにとても似ています)

しかし、教育の「年数が決まってる」って、なんかまるで囚人に支給される服のサイズが決まってるかのようなそんな印象すら受けるんです。


で、さらに言えば、5教科の知識。

これをそこまで(多くの人は、これに6-3-3-4年をかけています)訓練する必要って本当にあるんでしょうか。

みんな、「学力を伸ばすのは当たり前」という前提で、いろんな議論がされてますが、そもそも、社会生活をして行く上で、あるいは人生において、自立や成功をする上で、5教科のテストの点数を平均点以上とったり、良い学校に入ろうと、あるいはやたらと博学であることを賞賛することって果たして意味があるのでしょうか?

いやいや、お前、そもそも塾やってて、良い大学に入れようとしているやんけ!と言われそうですが、僕は、「本人やご家族が望む進路の手伝い」をしたいだけで、それが大学進学であることが多いのでそれを手伝っているんですね。さらに言えば、そこで自信をなくしている生徒さんや関係性が悪くなっているご家庭が多いので、そこでお手伝いをしているのです。僕自身は決して「難関大学に行った方が良いよ」なんて微塵も思っていません。(もちろん、人によってはそうした方が良いと思う子もいますし、そこに関して否定的でもないです。例えば、医者になるには、医学部に行く必要がありますから、医学部受験を推奨するし、どんな医者になりたいかによって大学選びも変わります)

とはいえ、ありがたいことに、これまでの人生で多くの「一流」と呼ばれる人に出会いましたが、どうも5教科の勉強は関係なさそうなのです。(もちろん、この辺はエヴィデンスを整理する必要があります)

その仮説が正しければ、「そもそも、そこに当てていた時間を別のものに当てれば、もっと伸びたんじゃね?」となりませんかね?

多くの親御さんが、なぜか「学校の成績が悪いことはダメなことだ」と信じていらっしゃる(だから、少し成績が悪くなると、起こったり塾に行かせたりする)。で、それは、過去において、例えば中国では
「科挙」という試験があり、論語などを覚えさせてその知識がある人間を高級官吏として任用した歴史などがあり、今も、国家公務員として「キャリア」官僚になるには5教科の知識やそれに付随することが必要だからなんでしょう。

いや、でもね、冷静に考えてみましょうよ。

そんなん、そういうのが好きな子がやれば良くて、なんでみんなできる必要があるんでしょうかね。

読み書きそろばんで充分じゃないかなと。

なんか、やたらと手間暇かけてこねくり回して、
ヒトモノカネを使って無駄にいろんな工程だけはふまされてる感じがするんですよね。

いや、ほんと。

例えばなんですけど、「漢文」とかいる?


てか、なんで、中国で何百年も前に書かれた文章を、しかといちいち日本語の古文にして読めないといけないのか、そこにコストを費やすなんて常軌を逸してますよ。

そんなんは、好きな奴が趣味でやれっていうね。



例えばね、「パワポを使ったプレゼン術」(演説術)とか、「中国語」とか、「プログラミング」とか、「金融教育」とか、「(世界と日本の)ビジネスマナー」とか、「子どもや部下の教育法」(例えば教育心理)とか、「医療」とか、「伝え方(コミュニケーション)」とか、「ビジネスアイデアの仕方」とか、「起業の仕方」とか、「デザイン」とか、

どう考えても、他にやることいっぱいあるだろ!

と思いませんか?



少なくともね、「子どもをどう育てるか」の様々な理論なんて、多くの人がむしろ学んだ方が良くて、明らかに「化学式」より「微積」より、必要になる人は多いし、自分に関係のあることじゃないかなと。(もちろん、化学式や微積が必要な人もいると思うので、それは自分でやれよという話)

ま、そんな訳で、僕は正直に言って、「今の国が提示しているカリキュラム」には、ツッコミどころが死ぬほどあるし、それを「学生のうちは」誰もが、「なんでこんなことせなあかんねん!」と思っていたのに、喉元過ぎればなんとやらで、大人になったら「自分もその道を通った」という謎の理論で、「やるのが当たり前」として、そこを反発する子どもには強要するって、思考停止以外の何者でもないんじゃないのかな?と思うのです。


そして、「いや、それをやってきたからこそ、今の文明が築かれた」と言われるのかもしれませんが、「いやいや、いまだに人類ってあらゆることを学んでないし、そもそと大人になって学ぶのをやめてる人多いじゃん。それって、そういう教育システムだったからとは思えない?」と思うのです。

しかし、まだまだそれを立証するためのデータが足りない。

よって、僕の中で、これは一生の課題でして、いつか「こういう教育システムの元で、これらの学習をやっていくことで、こういう風になるよね」というデザイン案を提示したいと思ってます。

もちろん、素案はあるのでね、自分の娘にそれをやってみて、うまくいったらマニュアル化したいですよね。


(前編終わり)